ロートスの木

ロートスの木（λωτός, Lotus tree）

ロートスの木は、主に古代ギリシアの神話や文学、そして旧約聖書にその名が見られる、神秘的な性質を持つとされる植物です。その描写は文献によって異なり、忘却をもたらす実をつける木や、美しいニンフが姿を変えたものとして語り継がれています。

神話と文学におけるロートスの木

最も有名な登場例の一つが、古代ギリシアの詩人ホメロスによる叙事詩『オデュッセイア』です。物語の中で、トロイア戦争からの帰路につく英雄オデュッセウスの一行は、「ロートス食い」を意味するロートパゴス族が住む島に漂着します。この島の住人たちは、ロートスの木から採れる甘い実を主食としていました。

このロートスの実は、食した者に不思議な効果をもたらします。オデュッセウスの部下たちがこの実を口にすると、彼らは故郷であるイタケのことも、家族や友人のことも完全に忘れ去ってしまいました。故郷へ帰りたいという強い願望すら失い、ただその島でロートスの実を食べ続け、安逸な日々を送ることだけを望むようになったのです。オデュッセウスは、部下たちが完全に故郷への思いを失ってしまう前に、力ずくで彼らを船に連れ戻し、急いでその島を離れなければなりませんでした。

一方、古代ローマの詩人オウィディウスの作『変身物語』にも、ロートスの木に関するエピソードが登場します。この物語によれば、ロティスという名の美しいニンフがいました。彼女は海と水の神ネプトゥーヌスの娘とされています。ロティスは、森の神プリアーポスからのしつこく激しい求愛から逃れようと必死でした。追いつめられた彼女は神々に助けを求め、その祈りは聞き届けられます。神々の手によって、ロティスはその姿をロートスの木へと変えられ、追手から逃れることができたと語られています。

聖書における言及

ロートスの木は、古代の宗教文書である『旧約聖書』の中にもその名が現れます。「ヨブ記」の第40章21節から22節にかけて、神がヨブに対して語りかける場面で、巨大な獣ベヒモスを描写する際に言及されています。この箇所では、ベヒモスが「ロートスのもとに伏し、葦と沼沢の中にかくれている」と述べられており、ロートスの木が水辺に生える、巨大な生物が隠れるほどの茂みを作る植物として描かれています。これは神話とは異なる文脈での登場ですが、古代世界においてある種の象徴的な植物として認識されていたことを示唆しています。

植物学的候補

神話や文献に登場するロートスの木が具体的にどの植物を指すのかについては、古来より様々な説があります。有力な候補としては、主に以下の二種類が挙げられます。

1. マメガキ (Diospyros lotus): カキノキ科カキノキ属の落葉樹で、アジアを原産とします。樹高は約7メートル（約25フィート）ほどに成長し、黄緑色の小さな花をつけます。実は食用となり、渋柿に似た性質を持つとも言われます。ホメロスの描く「忘却の実」との関連性は直接的には不明ですが、その分布や実をつける性質から候補の一つとされています。

2. Ziziphus lotus: クロウメモドキ科ナツメ属の低木です。主に北アフリカやガベス湾周辺の島々（ホメロスの描くロートパゴス族の島と推測される地域を含む）に自生しています。ナツメに似た丸い甘い実をつけ、これがホメロスの物語に登場する実の候補とされています。この実は実際に軽い鎮静作用や心地よさをもたらす効果があるとする説もあり、神話の記述と関連付けられることがあります。

これらの植物学的候補は、それぞれが神話の描写の一部と結びつきながらも、どの植物が「ロートスの木」であるかを断定することは難しく、神話上の植物としての性格が強いと言えます。神話、文学、そして聖書に登場するロートスの木は、人間の記憶や故郷への思い、あるいは変身といったテーマと結びつけられ、想像力を掻き立てる存在として語り継がれています。それは単なる植物としてだけでなく、物語や信仰の中で特別な意味を持つ象徴として、現代にまでその名を伝えているのです。

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