ヴァイオリン協奏曲ハ長調 (ベートーヴェン)

ヴァイオリン 協奏曲ハ長調 WoO 5

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1790年から1792年頃にかけて作曲したとされる「ヴァイオリン協奏曲ハ長調 WoO 5」は、彼のキャリア初期に位置づけられる重要な楽曲の一つです。しかし、その現存形態は極めて特殊であり、作品全体を知ることはできません。この作品は、ベートーヴェンの全創作活動の中でも、特に謎めいた存在として知られています。

現存する手稿譜と未完の議論

現在、この協奏曲に関して残されているのは、ベートーヴェン自身の筆による自筆譜の断片のみです。具体的には、第1楽章の冒頭部分、合計259小節分だけが確認されています。この貴重な手稿譜は、オーストリアのウィーンにある楽友協会（Gesellschaft der Musikfreunde in Wien）の書庫に厳重に収蔵され、保管されています。

残された断片は、オーケストラのトゥッティ（総奏）による提示部の一部と、独奏ヴァイオリンが登場する部分の始まりを含んでいます。しかし、この断片が何を意味するのかについては、音楽学者の間で長年にわたり活発な議論が交わされてきました。主な論点は二つあります。一つは、ベートーヴェンはこの楽章、あるいは協奏曲全体を一度は完成させたものの、何らかの理由で大部分が失われ、この259小節分だけが奇跡的に残ったという可能性。もう一つは、作曲の途中で構想が変更されたか、あるいは興味を失ったかなどの理由により、元々この楽章自体が最後まで作曲されることなく、未完のまま放置されたという可能性です。現存する資料だけでは決定的な結論に至らず、この未解決の謎が作品の背景に深みを与えています。この議論は、ベートーヴェンの創作過程や初期の様式を理解する上で、重要な論点として扱われています。

再発見と「完成」への試み

長い間忘れられていたこのヴァイオリン協奏曲の断片は、1870年に再び日の目を見ることとなりました。再発見されて以降、多くの音楽家や研究者がこの魅力的な断片に注目しました。そして、ベートーヴェンの手から離れた残りの部分を、彼の音楽語法や様式を推測しながら補筆し、失われたあるいは未完の部分を埋めて、演奏可能な形に「完成」させようとする試みが繰り返し行われました。これは、断片がベートーヴェンの若き日の筆致を示す貴重な資料であると同時に、完全な協奏曲として聴きたいという後世の人々の願いの表れでもあります。

こうした補筆の試みにより、複数の異なる版が出版されました。例えば、著名なヴァイオリニストであったヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世や、オランダの作曲家・ヴァイオリニストであるフアン・マネン、そしてドイツのヴァイオリニストアウグスト・ウィルヘルミなどが、それぞれ独自のアプローチでこの作品の補筆版を手掛けています。これらの版は、現存するベートーヴェンの筆による259小節を基にしつつも、その後の展開やカデンツァなどに補筆者の個性が反映されています。

補筆版への評価と学術研究

しかし、これらの「完成」された演奏用版に対しては、専門家や批評家の間でしばしば厳しい評価が寄せられてきました。主な批判の対象となるのは、補筆された部分がベートーヴェンの初期の作曲様式や、残された断片から読み取れる本来の意図と乖離しているという点です。後世の音楽語法や、作曲家自身の成熟期のスタイル、あるいは補筆者個人のロマン派的な解釈などが安易に持ち込まれているのではないか、といった指摘がなされることも少なくありません。ベートーヴェンがこの作品をどのような形で完結させるつもりだったのかが不明である以上、いかなる補筆も推測の域を出ないため、その妥当性を巡る議論は避けられないのです。

演奏会で取り上げられる機会もある補筆版ですが、その一方で、あくまで現存する断片を正確に研究することを目的とした試みも進められました。この作品の初めての本格的な学術校訂版は、ベートーヴェンのWoO作品（「作品番号なし」の作品群）の研究で世界的に知られるドイツの音楽学者、ヴィリー・ヘスによって作成され、1961年に発表されました。ヘス版は、その後の研究や資料公開の基礎となっています。

楽曲の編成

このヴァイオリン協奏曲ハ長調は、独奏楽器としてヴァイオリンが用いられるほか、オーケストラは管楽器と弦楽器で構成されています。具体的には、管楽器としてフルートが1本、オーボエが2本、ファゴットが2本、ホルンが2本が指定されており、これに第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスから成る標準的な弦楽合奏が加わる編成となっています。これは、ベートーヴェンが活躍した当時の古典派協奏曲において、一般的な編成規模に近いものです。

初期作品としての意義

わずか259小節の断片ではありますが、このヴァイオリン協奏曲ハ長調WoO 5は、若きベートーヴェンが既にヴァイオリン協奏曲という形式に関心を持ち、意欲的に作曲に取り組んでいた事実を示す貴重な証拠です。残された部分からは、彼の力強い筆致や、古典派の伝統を踏まえつつも独自の語法を模索していた様子が垣間見えます。特に、オーケストラと独奏楽器の関係性において、後の彼の協奏曲に繋がる萌芽が見られる可能性も指摘されています。未完のままであったとしても、彼の創作の変遷を理解する上で見過ごすことのできない作品と言えるでしょう。

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