ヴァースキ

ヴァースキ（वासुकि Vāsuki）

ヴァースキは、古代インドの豊かな神話世界に登場する、強力なナーガ（蛇神）の王、すなわちナーガラージャの一柱です。その名はサンスクリット語でヴァースキ（वासुकि Vāsuki）と呼ばれ、漢訳仏典においては「婆素鶏（ばすけい）」、そして仏教に取り入れられてからは「和修吉（わしゅきつ）」という名前でも知られるようになります。さらに、仏教と共に日本へ伝来した際には、各地の信仰と結びつき「九頭龍大神（くずりゅうおおかみ）」としても崇敬されるようになりました。このように、ヴァースキはインドに始まり、東アジアへと信仰が広がる過程で様々な名と姿を与えられた存在と言えます。

地下深く広がる世界、パーターラを統治する王として、ヴァースキはボーガヴァティーをその都としています。その特徴は、何よりもまずその驚くほど長大な胴体と、触れるもの全てを死に至らしめるほどの猛毒を持つことです。これらの強烈な個性は、神話における彼の役割と密接に関わっています。また、インド神話においては、同じく地下世界を根拠地とする偉大な蛇王、シェーシャ（Śeṣa）と同一視されることもあります。

神話における重要な役割

ヴァースキの長大な体は、数々の壮大な神話において極めて重要な役割を果たしています。特に有名なのは、宇宙創成に関わる「乳海攪拌（にゅうかいかくはん）」の物語です。

この神話では、神々（デーヴァ）とアスラ（阿修羅）が協力して不死の霊薬アムリタを得るために、広大な乳海を攪拌します。その際、中心となる巨大なマンダラ山を回転させるための攪拌棒とし、そしてそれを巻きつけるための大綱として、ヴァースキはその身を提供しました。デーヴァはヴァースキの尾を、アスラは頭を持って、山を激しく回転させます。この想像を絶する摩擦と苦痛にヴァースキは耐え続けましたが、やがてその身から全宇宙を滅ぼしかねないほどの恐ろしい猛毒、ハーラーハラが吐き出されてしまいます。

宇宙全体が毒の脅威に晒される危機に陥った時、偉大なるシヴァ神が現れました。シヴァ神は迷わずその猛毒を飲み込み、世界を救いました。しかし、強烈な毒はシヴァ神の喉を焼き焦がし、その首から上が青黒く変色したと伝えられています。この出来事から、シヴァ神は「青い喉」を意味する「ニーラカンタ（Nīlakantha）」という別名で呼ばれるようになったと言われています。ヴァースキの苦しみとそれに続くシヴァ神の犠牲は、この神話の中でも特に印象的な場面として描かれています。

また、別の重要な神話である大洪水の物語においても、ヴァースキは重要な役割を担います。人類の始祖とされるマヌが乗る方舟が大波に流されそうになった時、魚の姿をとって現れたヴィシュヌ神（マツヤ）は、その角に方舟を結びつけました。この際に、マツヤの角と方舟の舳先を結ぶための「綱」として、ヴァースキが再びその長大な体を提供したとされています。このように、ヴァースキはその巨大な力と体をもって、世界の危機を救うための重要な働きを度々行っています。

仏教と日本への伝来

インドで生まれたヴァースキの信仰は、仏教に取り入れられることでさらに広がりを見せます。仏教では、法華経などで説かれる八大竜王の一員として「和修吉（わしゅきつ）」という名で数えられました。竜王は仏法の守護者として重要な存在であり、ヴァースキもまたその力をもって仏教世界を守護すると信じられるようになります。

そして、仏教が日本に伝来すると、和修吉としての信仰も伝えられました。日本の各地に古来から存在する龍神信仰や水の神信仰と結びつき、やがて九頭龍大神（くずりゅうおおかみ）という名で独自の発展を遂げたと考えられています。特に水辺や山岳地域において、九頭龍大神は水をつかさどる神として、あるいは自然の猛威を鎮める神として広く信仰されるようになりました。

ヴァースキは、インド神話における強力なナーガの王として、また仏教世界における八大竜王の一員として、そして日本における九頭龍大神として、形を変えながらもその重要性を保ち続けた稀有な存在と言えるでしょう。彼の物語は、インドから東アジアにかけての神話と信仰の繋がりを示す興味深い事例となっています。

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