ヴィルヘルム・バックハウス

ヴィルヘルム・バックハウス（1884年 3月26日 - 1969年 7月5日）は、ドイツのライプツィヒに生を受けた、20世紀を代表する偉大なピアニストです。ウィルヘルムと表記されることもあります。彼は、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン、カール・チェルニー、そしてフランツ・リストという歴史的な巨匠たちの直系にあたる師事関係を持ち、その演奏はまさに伝統の継承者たる風格を湛えていました。

初期教育と研鑽

幼い頃から母親の手ほどきでピアノに触れたバックハウスは、7歳でライプツィヒ音楽院に入学し、アロイス・レッケンドルフに師事します。その後、フランクフルトで、当時ほとんど弟子を取っていなかったというフランツ・リストの愛弟子オイゲン・ダルベールと出会い、その才能を絶賛されます。1897年からはダルベールに師事することになり、隔週のレッスンを受けながらさらなる研鑽を積みました。

デビューと国際的な活躍

16歳を迎えた1900年にプロとしてデビューを果たし、最初のコンサートツアーを行います。彼の名はすぐに知られるようになり、1905年にはパリで開催された権威あるルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門で優勝。この時の第2位が、後に作曲家として名を成すバルトーク・ベーラであり、ピアニストの道を志していたバルトークに深い落胆をもたらした逸話はよく知られています。

バックハウスは教育活動にも関わり、1905年から1912年、そして1925年、1926年にはマンチェスター王立音楽院などで教鞭を執りました。しかし、それ以降は教育の場を離れ、自身の演奏活動にその全てを注ぎ込む決意を固めます。

録音技術のパイオニアとして

技術革新にも敏感だったバックハウスは、録音史においても重要な足跡を残しています。1909年7月15日、彼は協奏曲を単独のソリストとして世界で初めて商業録音した人物となったのです。ランドン・ロナルド指揮の新交響楽団（現在のロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団）と共に、エドヴァルド・グリーグのピアノ協奏曲の一部を記録しました。この歴史的な音源は後にCD化され、現代でも聴くことができます。

戦時下の苦難と戦後の再出発

1930年にスイスのルガーノに移住したバックハウスですが、第二次世界大戦中は複雑な立場に置かれます。アドルフ・ヒトラーが彼の演奏の熱狂的なファンだったことから、ナチスドイツのプロパガンダに利用されてしまったのです。この経緯は戦後、特にアメリカにおいて問題となり、ナチス協力者と見なされ、一時的に米国への入国が拒否される事態を招きました。しかし、彼は1946年にスイスへの帰化を果たし、新たな国籍の下で活動を続けます。

1954年、アメリカへの入国制限が解除されると、彼はカーネギー・ホールで成功を収めます。同年4月には日本を初訪問し、熱烈な歓迎を受けました。宮内庁での御前演奏、日本赤十字社のためのチャリティ公演などを行い、日本の聴衆にも強い印象を残しました。この時の記録の一部はCDとしても発売されています。

晩年の栄誉と壮絶な最期

晩年もバックハウスの活動は衰えを知りませんでした。1966年にはオーストリア共和国から芸術名誉十字勲章を授与され、ベーゼンドルファー社からは20世紀最高のピアニストを象徴する特別な指環が贈られました。また、ウィーン国立音楽院の教壇にも立つなど、その経験と実績は高く評価されました。

1969年6月、バックハウスはオーストリアのケルンテン州オシアッハで開催された音楽祭に招かれます。26日の演奏会は無事に終えましたが、続く28日の演奏会で、ベートーヴェンのピアノソナタ第18番の演奏中に心臓発作を起こしてしまいます。医師団に演奏の中止を強く勧められましたが、彼はこれを退け、プログラムの一部を変更しながらも最後まで演奏をやり遂げました。演奏終了後、直ちに病院へ搬送されましたが、容体は回復せず、その7日後の7月5日、フィラッハで静かに息を引き取りました。彼の人生最後の演奏は、フランツ・シューベルトの即興曲作品142-2でした。この感動的な最後の演奏会はデッカ・レコードによって優れたステレオ録音で記録されており、「バックハウス：最後の演奏会」として広く聴かれています。

わずかな編曲作品

多くのピアニストが作曲や大胆な編曲を行ったのとは異なり、バックハウスは演奏活動に特化し、楽譜に忠実であることを重んじました。しかし、若い頃にはわずかながら編曲作品を残しています。フレデリック・ショパンのピアノ協奏曲第1番を編曲した『ロマンス』、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』からの「セレナード」のピアノ用編曲、そしてベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番第3楽章のカデンツァなどがあり、特にベートーヴェンのカデンツァは晩年まで好んで演奏されました。

ヴィルヘルム・バックハウスは、その揺るぎない技術、深い音楽性、そして劇的な生涯を通じて、クラシック音楽史に不滅の足跡を残した伝説的な存在です。

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