下り酒

下り酒（くだりざけ）とは

江戸時代に上方（現在の関西地方）で生産され、江戸へ輸送・消費された酒のことです。当時、上方で作られた高品質な商品は「下りもの」と呼ばれ、下り酒はその代表的な存在でした。特に、摂泉十二郷（現在の兵庫県南部から大阪府北部）で造られる酒は、その味と品質の高さから江戸で非常に高い評価を得ていました。

上方酒の隆盛

上方、特に摂泉十二郷で作られる酒は、その品質の高さから江戸で人気を博しました。中でも、上級酒である諸白（もろはく）は「下り諸白」として高値で取引され、将軍の御膳酒に指定された伊丹の『剣菱』も下り酒の一つとして知られています。

輸送の変遷

海上輸送

下り酒の輸送は、主に船による海上輸送で行われました。当初は菱垣廻船（ひがきかいせん）で木綿や醤油などと一緒に運ばれていましたが、品質劣化や海難時のリスクなどの問題がありました。

樽廻船の登場

享保15年（1730年）には、酒問屋が江戸十組問屋から独立し、専用の樽廻船（たるかいせん）による輸送を開始しました。これにより、酒の品質管理が向上し、安定的な供給が可能になりました。

航海日数

大坂から江戸までの航海は、元禄年間ごろまでは平均30日を要しました。しかし、江戸時代後期には航海技術の進歩や港の整備により、平均10日にまで短縮されました。

新酒番船

毎年の新酒の時期には、新酒番船（しんしゅばんせん）と呼ばれる特急便が運行され、一番早く江戸に到着した船は「惣一番（そういちばん）」として名誉を与えられました。また、一番乗りした酒は高値で取引され、船の荷役が優先されるなどの特典がありました。この新酒番船の競争は、二代広重の浮世絵にも描かれるほど、江戸の風物詩となっていました。

酒の産地

下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷で生産されたものでした。その他には、山城、河内、播磨、丹波、紀伊などで造られた酒や、伊勢湾沖で合流する伊勢、尾張、三河、美濃などで造られた酒も下り酒として江戸に入っていきました。

陸揚げ後の流通

品川沖に到着した酒樽は、伝馬船に積み替えられ、新川、新堀、茅場町などの酒問屋の蔵に運ばれました。そこから酒仲買人を通じて小売酒屋（升酒屋）に渡り、消費者の手に届くというルートでした。京や大坂では造り酒屋が販売所を持っていたため、問屋は存在しませんでした。

江戸入津

江戸に入る物資のチェックは、中川と浦賀の幕府派出所で行われました。この調査結果は「江戸入津」と呼ばれ、幕府が経済状態の把握や市場操作に利用しました。江戸入津量は、酒造統制が制限期であった元禄10年（1697年）には年間64万樽、奨励期であった文化文政期（1804年～1829年）には年間100万樽と最高値を記録しました。

販売競争

摂泉十二郷の間では、江戸への売り込みをめぐって激しい競争が行われました。品質改良、技術革新、輸送手段の強化、江戸での営業活動など、各酒造地はしのぎを削りました。江戸時代前期は伊丹酒、池田酒が人気でしたが、後期には灘酒が市場を席巻しました。これは、灘が海沿いに位置し、江戸への輸送で有利だったことが理由として挙げられます。

地廻り酒との比較

下り酒の圧倒的な商品力の前に、地廻り酒（じまわりざけ）や御免関東上酒（ごめんかんとうあがりざけ）などは、江戸市場で対抗することができませんでした。醤油や木綿は、幕府の政策もあり、関東でも生産されるようになりましたが、酒においては下り酒の優位性が揺らぐことはありませんでした。

下り酒は、江戸の酒文化を大きく発展させ、経済にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。

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