井伊家伝記

『井伊家伝記』は、遠江国井伊谷の龍潭寺に伝わる家伝で、井伊氏の始祖とされる井伊共保の出生から、戦国時代の井伊一族の活躍、そして龍潭寺と大名井伊氏との関係までを記したものです。この書物は、龍潭寺の九世住職である祖山法忍によって、江戸時代中期の享保15年（1730年）に完成しました。

内容は、乾冊と坤冊の二つに分かれています。乾冊には、井伊家の始祖とされる共保の出生伝承、戦国時代の井伊直平とその子孫の活躍、井伊直政の幼少期までが述べられています。一方、坤冊には、直政が徳川家康に仕えてからの活躍や、著者である祖山が隣村の寺との間で「井伊共保出生の井」の権益をめぐって争い、最終的に彦根藩主からの寄進を受けるようになった経緯が記されています。

この書物の特徴的な点は、井伊共保が井戸から生まれたという伝承に基づいて、龍潭寺が毎年元旦に「生湯」「生粥」を共保の位牌に供える祭礼を行っていることを強調している点です。これは、龍潭寺が井伊家先祖を供養してきた歴史を主張し、寺の重要性を高める意図が込められていると考えられます。さらに、戦国時代の井伊家の繁栄は、共保に対する供養の積み重ねによるものだとして、江戸時代の彦根藩主にも共保への供養を促すことで、龍潭寺への援助を求める意図が見られます。

『井伊家伝記』は、戦国時代の井伊氏の歴史を語る上で、非常に重要な史料です。特に、次郎法師（後の井伊直虎）が「女地頭」であったことや、叔従父の井伊直親と許嫁であったことは、この史料でのみ述べられています。そのため、この書物の記述は、井伊氏の研究において重要な基礎資料となっています。

書物の成立について、奥書には彦根藩家老の木俣半弥からの要望で著されたと記されています。祖山は、正徳元年（1711年）に「井伊共保出生の井」の権益をめぐり、隣村の正楽寺と対立し、幕府寺社奉行へ訴訟を起こしました。この際、彦根藩と与板藩の両井伊家を頼り、勝訴を得ています。この訴訟の過程で、祖山は龍潭寺の由緒を記した文書を提出し、それが後に『井伊家伝記』としてまとめられました。

原本は現存が確認されていませんが、写本が複数存在します。彦根藩に提出されたと考えられる乾坤2冊本は彦根城博物館に所蔵されています。また、龍潭寺にも2種類の写本が伝わっています。静岡県立中央図書館や彦根市立図書館にも写本が所蔵されており、中には二宮神社神主の中井直恕による注釈が書き込まれたものもあります。

『井伊家伝記』は、地元の伝承をもとに書かれているため、史実とは異なる点も含まれています。例えば、井伊直平が引馬城12万石の城主であったという記述は誤りです。また、戦国時代の龍潭寺住職の南渓瑞聞を井伊直平の男子とする記述も、龍潭寺の過去帳の記録に基づくと考えられています。さらに、直親を次郎法師（直虎）の婿とする話も、直親が当時幼かったため、創作である可能性が指摘されています。ただし、当時の婚約は幼少のうちに成立することも多かったため、一概に否定することもできません。

これらの点から、『井伊家伝記』は、史実と伝承が混ざり合った家伝であると考えられます。しかし、井伊氏の歴史や、龍潭寺と井伊家の関係を理解する上で、非常に重要な史料であることに変わりはありません。

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