交響曲第90番 (ハイドン)

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1788年に世に送り出した交響曲第90番ハ長調（Hob. I:90）は、彼の創作活動において重要な位置を占める作品の一つです。

作曲の背景

この交響曲は、後の第91番、第92番『オックスフォード』と合わせて、フランスの郵便事業を牛耳っていたドーニ伯爵からの委嘱に応えて作曲されました。そのため、これら3曲はまとめて『ドーニ交響曲』とも称されます。パリで初演された『パリ交響曲』全6曲も実質的にはドーニ伯爵の依頼によると考えられています。

興味深いことに、ハイドンはほぼ同時期、具体的には1788年1月16日に、エッティンゲン＝ヴァラーシュタインのクラフト・エルンスト公からも、まだ誰も所有していない新しい交響曲3曲の提供を求められました。そして、ハイドンは翌年に同じく第90番から第92番までの楽譜をエルンスト公にも売り渡してしまいました。なぜ「誰も所有していない新作を」という依頼を受けながら、ハイドンがこのような二重販売を行ったのかは、今日まで謎に包まれています。

旧称『R字』

かつては『R字』（Letter R）という愛称で呼ばれることもありました。これは、ハイドン存命中にロンドンのフォースター社から出版された交響曲選集の第2集（全23曲）において、各曲に「A」から「W」までの整理用のアルファベットが付されていた名残であり、第88番の『V字』などと同様のケースです。現在ではこの愛称で呼ばれることはほとんどありません。

楽器編成

この交響曲の演奏には、以下の楽器が用いられます。

フルート1
オーボエ2
ファゴット2
ホルン2
トランペット2
ティンパニ
* 弦五部（第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス）

楽曲構造と特徴

この交響曲は全4楽章構成で、演奏時間は約25分です。この作品には、ハイドンならではの機知に富んだ音楽的仕掛けが随所に凝らされています。

中でも特筆すべきは、終楽章に巧妙に仕掛けられた偽終止に類する音楽的冗談です。聴衆が曲が終わったと勘違いしてしまうような効果を生み出し、実際の演奏会では、仕掛けに騙されてフライングで拍手をしてしまう観客を収めたライブ録音も存在するほどです。こうした『冗談音楽』の要素は、聴衆を楽しませようとするハイドンのユーモア感覚を如実に示しています。

各楽章詳細

第1楽章：アダージョ - アレグロ・アッサイ

ハ長調、4分の3拍子、ソナタ形式。ゆったりとしたアダージョの序奏に続き、速いアレグロ・アッサイの主部が展開します。主部では、ハイドンがしばしば用いた装飾音を伴う特徴的な旋律が第1主題として効果的に使われています。

第2楽章：アンダンテ

ヘ長調、4分の2拍子、変奏曲形式。「アンダンテ」のテンポで演奏されます。ハイドンは緩徐楽章に変奏曲を採用することを好んでいましたが、この楽章では、通常の変奏順序とは異なり、短調（ヘ短調）による変奏が比較的早い段階で現れる点が特徴です。

第3楽章：メヌエット - トリオ

ハ長調、4分の3拍子。特定のテンポ指示はありませんが、トリオ部分はメヌエットと音楽的に関連付けられています。全体として、フランスの宮廷音楽を思わせるような優雅さと洗練された雰囲気を兼ね備えています。

第4楽章：アレグロ・アッサイ

ハ長調、4分の2拍子、自由なソナタ形式。この楽章は、第1主題を特に重視した単一主題のソナタ形式として構成されています。この楽章の最大の聴きどころであり、前述の「冗談音楽」の核となっているのが、結尾に差し掛かる直前に置かれた4小節の偽休止です。これは、単に曲を中断させるだけでなく、その後のハ長調から変ニ長調への大胆な転調のための巧妙な布石となっています。この仕掛けが、ライブ演奏で観客を驚かせる要素となっています。

交響曲第90番は、ハイドン円熟期の創意工夫とユーモアが凝縮された作品であり、『ドーニ交響曲』としてだけでなく、その音楽的仕掛けによって今なお多くの聴衆を楽しませています。

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