佐伯矩

佐伯 矩（さいき ただす）は、1876年に現在の愛媛県西条市に生まれ、医師としての道を歩みながら、日本の栄養学を確立・発展させた先駆者です。しばしば「栄養学の父」と称される彼の功績は、現代の栄養学、そして国民の健康に大きな影響を与えました。

少年時代を愛媛県伊予市周辺で過ごした佐伯は、旧制松山中学校を経て第三高等学校医学部（現在の岡山大学医学部）に進学。さらに京都帝国大学医科大学で医化学を学びました。学生時代には早くも米と塩による生活可能性といった栄養に関する研究に興味を示しており、この頃から彼のその後の研究の方向性が定まっていたことがうかがえます。

大学卒業後、佐伯は上京し、内務省伝染病研究所で細菌学や毒素化学を学びました。1904年には、大根に含まれる消化酵素「大根ジアスターゼ」を発見し発表。この発見は、消化促進に良いとされる大根が一般に普及するきっかけの一つとなっただけでなく、夏目漱石の小説にも登場するなど、当時の社会にも影響を与えました。

1905年からはアメリカのイェール大学大学院に留学し、約6年間を海外で過ごしました。アメリカ政府の農商務省技師や医科大学講師を務める傍ら、ヨーロッパ諸国の栄養事情を視察し、知見を深めました。

帰国後、佐伯は栄養学の重要性を強く認識し、その独立と普及に尽力します。1914年には東京に私立栄養研究所を設立しました。これは世界で初めての栄養学を専門とする研究機関でした。ここでは特に米の研究に力を入れ、その精製度と栄養価に関する知見は後に国の食料政策にも影響を与えました。1917年には世界初の栄養学講習会を開催し、専門知識の普及にも努めました。

佐伯はまた、「営養」という表記を現在の「栄養」に統一するよう文部省に提言し、これが定着しました。彼は穀物の胚芽に豊富な栄養があることを指摘し、「胚芽米（胚子米）」の利用を提唱。さらに、米を研ぎ洗うことによる栄養損失（淘洗）の危険性も警告しました。

栄養学を国家レベルで推進するため、佐伯は国立栄養研究所の設立を主張。その努力が実を結び、1920年に内務省栄養研究所が開設されると、彼は初代所長に就任しました。翌年には栄養学の専門学会である「栄養学会」を設立するなど、学術的な基盤作りも進めました。

彼の提唱で特に知られるのが「七分搗米」です。白米は栄養が失われやすく、玄米は消化効率が低いという観点から、胚芽を残しつつも消化しやすい七分搗米を「標準米」として推奨しました。この推奨は広く受け入れられ、当時の摂政（後の昭和天皇）も七分搗米を食するようになったと伝えられています。また、精米時の淘洗による栄養損失についても強く警鐘を鳴らしました。

栄養学の実践的な普及のため、佐伯は人材育成にも力を入れました。1924年には私立栄養研究所の跡地に世界初の栄養士養成施設「栄養学校」（現在の佐伯栄養専門学校）を開設し、卒業生を「栄養士」と称したのです。これが現代に続く栄養士制度の源流となりました。

国際的にも活躍し、国際医学会議での講演や、国際連盟の要請による欧米での講演、日本の栄養研究成果を世界に紹介するなど、日本の栄養学を国際的に認知させる役割も果たしました。1934年には日本栄養学会が独立した学術団体として認められ、栄養学の地位はさらに向上しました。

1938年に厚生省が新設されると、栄養研究所の管轄が移管されました。翌年、栄養研究所が再編された際に佐伯は退官しますが、彼の築いた基盤の上に、戦後には国立栄養研究所が再置され、栄養士法が公布されるなど、栄養学と栄養士制度はさらに発展していきました。

佐伯矩は1959年に83歳で死去しました。生涯を通じて、栄養学が保健、経済、道徳の基本であるとする「栄養三輪」を唱え、栄養学を単なる学問としてだけでなく、国民生活全体に関わる重要なものと位置づけました。自ら料理をすることはほとんどなかったと伝えられていますが、その思想と実践は、現代日本の健康と食文化に計り知れない貢献を残しています。愛媛県伊予市の栄養寺や東京都大田区の池上本門寺には、彼の功績を称える顕彰碑が建立されています。

もう一度検索