僕の中の少年

山下達郎『僕の中の少年』：デジタル時代への葛藤と、少年性の継承

1988年10月19日にリリースされた山下達郎9枚目のスタジオアルバム『僕の中の少年』。本作は、単なる音楽作品という枠を超え、アナログからデジタルへの過渡期における音楽制作の困難、アーティストとしてのアイデンティティの模索、そして周囲との複雑な関係性といった様々な要素が複雑に絡み合った、山下達郎の揺るぎない音楽性と内面を深く反映した作品と言えるでしょう。

デジタルレコーディングとの格闘

前作『POCKET MUSIC』制作後も、山下達郎はアナログからデジタルへのレコーディング機材の移行という大きな課題に直面していました。デジタル化による録音解像度の向上は、それまでのアナログ録音で培ってきた技術や感覚を無効化し、彼を深い苦悩に陥れました。デジタル録音を一度は放棄し、アナログへの回帰も考えましたが、常に最新の技術で制作するという自身のポリシーとの間で葛藤しました。

最終的にSONY PCM-1610からPCM-1630への移行による音質向上によって、デジタル録音への違和感を克服。アナログで録音された楽曲をデジタル機材を用いて再録音することで、本作の制作にこぎつけました。この過程には、並々ならぬ努力と時間、そして山下達郎自身の揺るぎない音楽への情熱が注がれています。

自身のアイデンティティと制作方針

アルバム制作においては、音作りだけでなく、アルバム全体の制作方針も大きな影響を与えました。山下達郎は、作家的なアルバム制作は比較的容易である一方、『POCKET MUSIC』や『僕の中の少年』のような、自身のアイデンティティや思想を反映させた作品は、並々ならぬ苦労を伴うと語っています。楽曲主体の作家的なアルバムとは異なり、自身の編曲や音作りへのこだわりが、デジタルレコーディングにおいては表現が難しいという課題がありました。

アルバムタイトルにもなっている「僕の中の少年」は、長女誕生を機に制作された楽曲で、アルバム制作の構想段階から既にテーマとタイトルが決まっていたほど、山下達郎の私生活に大きな影響を与えた出来事でした。彼は本作をシンガーソングライターによるコンセプトアルバムと位置づけ、リチャード・ハリスやムーディー・ブルースの作品からの影響を明かしています。

周囲との葛藤と商業的な成功

制作過程では、スタッフとの間で制作方針の相違がありました。スタッフは「夏だ、海だ、タツローだ」路線の継続を期待していたのに対し、30代半ばを迎えた山下達郎は、自身の内面世界を表現することに重きを置いていました。先行シングル「踊ろよ、フィッシュ」の不振や、スタッフからの反対を押し切ってリリースした「ゲット・バック・イン・ラブ」のヒットなど、様々な葛藤がこのアルバムに反映されています。

ヒットチャートに対する葛藤や、周囲からの「人気も盛りを過ぎた」という声も、本作の制作に影響を与えました。しかし、山下達郎は、今のうちに自身のアイデンティティを表現したアルバムを作りたいという強い意志を持っていました。

作品への評価とその後

『FOR YOU』などの人気作に比べると知名度は低いものの、『僕の中の少年』はファンクラブ会員による人気アルバム投票で1位を獲得するなど、特に20代前半の層から高い支持を得ています。商業的には成功とは言い難かったものの、アーティストとしての山下達郎の真価が問われた作品であり、彼の音楽的成熟度を示す重要な作品と言えます。2020年には山下達郎自身の監修による最新リマスター盤がリリースされ、改めてその魅力が再確認されています。

収録曲の詳細

アルバム収録楽曲は、それぞれの楽曲にまつわるエピソードや制作背景が深く掘り下げられており、山下達郎の音楽に対する情熱とこだわりが伝わってきます。「新・東京ラプソディー」の戦前日本映画からの影響、「ゲット・バック・イン・ラブ」の制作秘話、「The Girl In White」のサントリーCMソングとしての制作経緯、「寒い夏」の歌詞制作における竹内まりやとの協力、「踊ろよ、フィッシュ」のスタッフとの意見の相違、「ルミネッセンス」のプラネタリウムを用いたミックスダウン、「マーマレイド・グッドバイ」のホーボーソングとしての解釈、「蒼氓」におけるゴスペルへの憧憬とYMOへの言及、「僕の中の少年」における少年性との訣別など、各楽曲には多くの興味深いエピソードが込められています。これらの詳細な制作エピソードは、単なる楽曲解説を超え、山下達郎というアーティストの思想や感性を深く理解するための重要な手がかりとなっています。

『僕の中の少年』は、商業的な成功とは異なる形で、山下達郎の音楽家としての揺るぎない姿勢と、アーティストとしての深みを示す、極めて重要な作品と言えるでしょう。

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