POCKET MUSIC

山下達郎『POCKET MUSIC』：デジタル時代の幕開けと葛藤の記録

1986年4月23日、山下達郎の8枚目のオリジナルアルバム『POCKET MUSIC』がリリースされました。前作『MELODIES』から約3年ぶりとなる本作は、オリコンチャートで1位を獲得。LP、カセットテープ、CDの全フォーマットで首位を獲得するという快挙を成し遂げました。しかし、このアルバムは単なるヒット作という枠を超え、山下達郎の音楽史、そして日本の音楽シーンにおけるデジタルレコーディング技術の転換期を象徴する作品として、重要な意味を持っています。

デジタルへの過渡期と制作における苦悩

『POCKET MUSIC』の制作は、アナログからデジタルへの過渡期に行われました。1980年代中盤、レコーディング技術は、従来のアナログ24トラックMTRからデジタルマルチチャンネルレコーダーへと移行しつつありました。SONY PCM-3324などのデジタル機材が導入され始めましたが、当時のデジタル録音技術は黎明期であり、様々な課題がありました。

最大の課題は「音圧」でした。デジタル録音の広いダイナミックレンジを活かしきれず、音が薄く、力強さに欠ける、いわゆる「ガッツがない」音になってしまいがちでした。これは、アナログテープのように録音時にダイナミックレンジが自然と圧縮されることがなく、音のにじみや歪みが減少したことが原因でしたが、当時の技術ではその原因が理解されていませんでした。また、ADCやDACの性能不足によるリンギング（高調波の発生）も、音の硬質化に繋がりました。

これらの問題を解決するため、デジタル音源をアナログテープで録音してからデジタルに戻す「テープコンプ」などの手法が考案されましたが、アナログ機材のサポートが終了しつつある状況では、抜本的な解決策とはなりませんでした。

当時、デジタル機材を効果的に使用していた音楽は、シンセサイザーを前面に出したヒップホップや、点音源のように音を配置した音楽などでした。しかし、それらは山下の従来の音楽性とは大きく異なり、山下自身もデジタルへの移行に戸惑いを感じていました。

一時はアナログ機材への回帰も検討した山下でしたが、音楽市場のデジタル化の流れを鑑み、デジタル機材への移行を決断。その結果、『POCKET MUSIC』は、山下自身の音楽性とデジタル技術との間に生まれた違和感、葛藤を反映した、実験的な作品となりました。

小編成感とデジタル特有の音質

デジタル環境への対応に苦慮した結果、本作は小編成の、いわゆる「コンボ感」の強い作風となりました。発売は何度も延期され、「試作品」と山下自身も語るほど、完成には至難の業を極めました。当初リリースされたCDでは、音が薄くシャカシャカし、各パートがごちゃごちゃと混ざり合うなど、音質に大きな問題がありました。これはデジタル特有の音のにじみのなさ、初期のAD変換器のリンギング成分が空間表現を阻害した結果です。山下自身もこの音質に強い不満を感じ、後に吉田保氏によるトラックダウンのやり直しが行われ、1991年発売のリミックス盤で改善された音質が聴けるようになりました。

さらに、ミュージシャンたちの多忙化も制作の難しさに拍車をかけました。従来の制作方法が困難になったことで、山下は自らの演奏と打ち込みによる多重録音を制作の中心に据えるようになりました。

制作環境の変化と技術革新

アルバム制作期間中は、Roland MC-4からNEC PC-8801、PC-9801と、使用機材も移り変わっていきました。PC-8801ベースのシステムでは発音タイミングの精度が不足し、人間的なノリを再現できないため、アルバムの発売は延期されました。それに伴い、コンサートツアーも延期、翌年に改めて開催されました。

デジタル化によって、アナログ時のような音の重ねすぎは、音がケンカする原因となりました。そのため、演奏楽器を減らす編曲へと変化していきました。これは、後のPro Toolsへの移行でも同様の変化が見られました。

リリース履歴とその後

『POCKET MUSIC』は1991年に吉田保氏によるリミックス盤、2020年には山下達郎監修による最新リマスター盤がリリースされています。これらのリリースは、時代を超えて愛され続ける名盤の価値を改めて証明するものです。

『POCKET MUSIC』は、デジタルレコーディング技術の黎明期における挑戦と葛藤、そして革新の軌跡を刻んだ、歴史的な作品なのです。そのサウンドは、デジタル技術の進歩と、山下達郎という稀有なアーティストの創造性が融合した、唯一無二のものです。

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