大川常吉

大川常吉：関東大震災下、命を救った警察官

混乱の中の決断

1877年（明治10年）生まれの大川常吉（おおかわ つねきち）は、日本の警察官としてその生涯を送りました。特に、1923年（大正12年）の関東大震災発生時、神奈川県橘樹郡鶴見町（現・横浜市鶴見区）における彼の行動は、今なお語り継がれています。大震災による社会の混乱の中、流言飛語に煽られた自警団や群衆によって生命の危機に晒されていたおよそ300名の朝鮮人・中国人たちを、大川は自らの命を賭して守り抜いたのです。

大川は1905年（明治38年）に巡査となり神奈川県に赴任後、横浜や横須賀などでキャリアを積み、震災発生時には神奈川警察署鶴見分署の分署長を務めていました。震災後も警察官として勤め、1927年（昭和2年）に退官しています。定年を前に職を辞したことについては、震災時の行動が当時の見方に影響した可能性を示唆する意見も存在します。

震災下の異常事態と人命救助

1923年9月1日、マグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲いました。壊滅的な被害に加え、交通網の寸断は情報不足と孤立を生み、社会不安は極限に達しました。特に「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を入れた」といったデマが広範に流布し、各地で自警団による外国人への襲撃事件が発生しました。

鶴見地域も例外ではなく、デマによって危険視された人々が次々と自警団に捕らえられました。9月2日、鶴見分署にも「井戸に毒を入れた」として4人の男が連行されてきました。自警団は彼らを朝鮮人だと決めつけていましたが、大川は落ち着いて取り調べを行い、彼らが東京へ避難途中の中国人であり、所持品も毒物ではないことを確認しました。群衆の疑いを晴らすため、大川は彼らの持っていたビンの液体（ビールと中国醤油）を自ら飲んで見せました。しかし、流言飛語は止まらず、さらに多くの朝鮮人と疑われる人々が分署に保護を求めたり、自警団に連行されてきたりしました。

署だけでは収容しきれなくなったため、大川は一時的に避難民を近隣の總持寺へ移送させました。しかし、9月3日には武装した数千人ともいわれる群衆が總持寺や分署を取り囲み、避難民の引き渡しを強く要求しました。地元有力者からも追放の圧力がかかり、避難民の命は風前の灯火となりました。

絶体絶命の対峙

危機を察した大川は、避難民を總持寺から再び鶴見分署へ移動させました。そして、わずか数名の部下と共に、1000人を超える殺気立った群衆の前に立ち向かいました。大川は彼らの前に仁王立ちとなり、退去を迫る群衆に対して、自らの命を賭した決意を表明しました。

「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さないぞ」

この言葉に群衆は気圧されました。代表者が避難民が逃走した場合の責任を問うと、大川は「我輩潔く君等の前で割腹して申し訳をする」とまで言い切りました。その鬼気迫る覚悟に、ついに群衆は引き揚げ、大川と署員は朝鮮人・中国人合わせておよそ300名を無事に守り抜いたのです。保護された人々はその後、食糧支援を受け、9月9日には船舶で安全な場所へと移送されました。

没後の評価と現代への示唆

震災後、大川のもとには救助された朝鮮人たちから感謝状が届けられました。この感謝状は、当時の極限状況下での人道的な行動の証である一方、警察官による当然の職務である人命救助が「美談」として特別視されること自体が、当時の社会に根差した差別と異常性を物語っているとも指摘されています。

大川常吉の功績は、没後も様々な形で顕彰されています。彼の菩提寺である鶴見の東漸寺には、在日朝鮮人組織によって建てられた顕彰碑があり、地域の歴史教育や人権教育の場で、民族や国籍を超えた共生の重要性や、差別に立ち向かう勇気を伝えるシンボルとなっています。また、在日コリアン作家の朴慶南氏のエッセイをきっかけに、韓国でも彼の存在が知られ、子孫が招待されて感謝を伝えられるという交流も生まれました。

近年、当時の鶴見町の有力者の日記や、町議会議員であった渡辺歌郎の手記『感要漫録』が発見され、大川の行動の背景や、当時の町の状況に関する歴史研究が深まっています。渡辺の手記は、流言飛語がデマであると確信した大川の冷静な判断や、住民への懸命な説得の様子を伝える貴重な資料とされています。

大川の行動は、多くの人々から高い評価を受けています。「沈着剛胆な警察官」「ヒューマニズムの体現」「差別意識に流されなかった信念の人」といった賛辞と共に、当時の社会状況を知悉していたからこそデマに惑わされず、管内の外国人労働者の実態を知っていたからこそ彼らを危険視しなかった、という分析もなされています。一方で、彼の孫が語るように、「祖父がしたことはそれほど褒められることなのか」「差別が横行した時代だからこそ、当たり前の行動が美談になった」という謙虚かつ鋭い問いかけは、現代社会における人権や差別の問題を考える上で、重要な示唆を与えています。

大川常吉の物語は、現在、学校教育の教材としても活用され、生徒たちが歴史から学び、多文化共生社会のあり方や、困難な状況での倫理的判断について考えるきっかけとなっています。彼の勇気と信念に裏打ちされた行動は、時代を超えて人々の心に響き、私たちが共生社会を築く上で忘れてはならない大切な教訓を伝えています。

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