密室の母と子

『密室の母と子』について

『密室の母と子』は、1980年5月15日に潮出版社から刊行された日本の書籍です。この書物は、母と息子の間の近親相姦に関する電話相談の記録を中心として構成されています。

背景

本書の基になったのは、1980年頃にその活動が広く知られるようになった荒川和敬氏の「ダイヤル避妊相談室」に寄せられた相談内容です。当初、この電話相談室には兄弟姉妹間の近親相姦に関する相談が多く見られましたが、1980年以降、特に母と息子の関係に関する相談が顕著に増加しました。これらの相談からは、禁忌と知りながらも関係を持ってしまう少年、母親の行動に嫌悪感を抱きつつも応じてしまう少年、あるいは母親以外の女性に対して性的な嫌悪感を抱くようになってしまった少年など、多様な少年たちの苦悩や葛藤の姿が浮かび上がりました。

こうした相談記録は『朝日新聞』に掲載され、大きな注目を集めました。そして、この取材を担当した記者の川名紀美氏によって、一冊の書物としてまとめられたのが本書『密室の母と子』です。

社会的反響

母と息子の近親相姦というテーマは、当時の社会に強い衝撃を与え、様々な議論を巻き起こしました。原田武氏は、このような関係性が成立しうる日本的な背景として、夫である父親が仕事に没頭し家庭に不在がちな状況や、性的な欲求を持て余した母親が息子を相手に選んでしまう可能性を指摘しました。また、性情報が氾濫する一方で厳しい受験競争に晒される息子が、母親との関係を鬱憤晴らしの手段として利用してしまう状況も、当時の日本の現実としてあり得ると分析しました。

この書籍や関連報道により、「日本で母と息子の性的関係が多発しているのではないか」という、あたかも日本特有の近親姦に関する憶測が広く広まりました。当時の言論界でもこの問題は取り上げられ、例えば南博氏が『家庭内性愛の危機』（1984年）で、また後に花村萬月氏が『幸福な母たちへ』（1999年）で、それぞれこのテーマに触れています。

批判と議論

一方で、こうした電話相談の内容そのものに対する懐疑的な見方や批判も少なくありませんでした。批判者たちは、相談のほとんどが息子側から寄せられ母親からのものが皆無に近かったこと、訴えの内容に深刻さが乏しい点、さらには相談に見られる性的な描写が、あたかも性文学の一般的なパターン（母親に自慰を見られた、入浴中に身体を触られた等）に酷似している点を挙げ、これらの相談が女性カウンセラーをからかう目的のいたずらではないかとの疑惑を提起しました。溝口敦氏の『性の彷徨者たち』（1982年）など、母子間の性的関係に関する電話相談記録の信憑性に疑問を呈する著作は複数存在します。また、マスメディアが「母子密着」というテーマをセンセーショナルに扱った姿勢についても強い批判が向けられました。

さらに、母子間の心理的な「癒着」についても議論がありました。たとえ母と息子が精神的に強く結びついていたとしても、その強い絆があるからこそ、かえって性的な欲求が別の形で満たされ、実際に関係を持つ必要がなくなるという解釈も提示されています。

実際の近親相姦に関する調査研究と比較した場合、本書の基になった電話相談における母息子の事例の多さには、確かに不自然さが指摘されました。例えば、久保摂二氏の1957年の論文では、調査した36例のうち母息子の事例は3例のみであり、五島勉氏が1972年に集めた男性の体験手記約30篇には母息子の話は全く見られませんでした。しかし、こうした批判に対し、数が少ないながらも実際に面接機関などで扱われる母息子間の性的関係事例が存在する以上、この問題を無視すべきではないとの反論も存在します。加えて、「男性は性的被害者になり得ない」という見方は、ジェンダー・バイアスに基づくものであるという指摘もあります。

電話相談の内容が性文学の描写に似ているという指摘について、原田武氏は性に関する情景を描写する際にはある程度の想像的な要素が入る可能性を認めつつも、相談内容に違和感がある点については同意を示しています。

本書を巡る一連の議論は、近親相姦というタブー視されがちなテーマに光を当てる一方で、情報の取り扱い方や社会における性・家族関係の認識について、多角的な視点からの検討を促す契機となりました。

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