山口伊太郎

山口伊太郎（やまぐち いたろう、1901年12月18日 - 2007年6月27日）は、京都西陣を代表する傑出した織匠であり、紋織物制作の第一人者としてその名を広く知られています。彼は紫紘株式会社の創業者であり、能装束制作の大家である山口安次郎を実弟に持ちます。

山口伊太郎氏は、小学校卒業後、親戚の織物店で丁稚として働き始め、織物技術の基礎を学びました。10代の終わり頃には早くも独立を果たし、従来の概念にとらわれず、様々な革新的な織技術を独自に編み出すことで、独創性に満ちた帯の創作に情熱を注ぎました。

第二次世界大戦中は織物業の一時中断を余儀なくされましたが、終戦後すぐに活動を再開し、1954年には紫紘株式会社を設立しました。また、戦後の混乱期において西陣織業界の再建と発展にも深く関与し、西陣織工業組合の設立に尽力しました。その功績が認められ、同組合の理事長や、財団法人西陣織物館の理事長などを歴任し、西陣織の振興に多大な貢献をしました。

70歳を迎えた1970年、伊太郎氏は自身の織物制作における集大成であり、まさに畢生（ひっせい）の事業として、「錦織による源氏物語の制作」という壮大なプロジェクトに着手します。これは、日本の古典文学の最高峰である『源氏物語』の世界観を、伝統的な錦織の技法を用いて絵巻物として表現するという、他に類を見ない試みでした。この困難な取り組みは、彼が105歳という高齢で亡くなるまで、実に37年という長い歳月にわたって続けられました。最終巻の織製指示を終え、あとは完成を待つのみとなっていましたが、残念ながらその姿を見ることは叶わず、2007年6月27日に老衰のため永眠しました。しかし、その遺志は弟子や関係者に引き継がれ、翌2008年3月3日、ついに「源氏物語錦織絵巻」最終巻は完成を見ました。

この「源氏物語錦織絵巻」は、国際交流の象徴ともなりました。明治時代初頭、西陣からは織物の技術を学ぶためフランスへ伝習生が派遣され、またフランスからは紋様織り出し装置であるジャカード機などの先進技術が導入されました。特にジャカード機は、その後の西陣の産業技術発展に大きく貢献しており、伊太郎氏はこれらフランスからの技術伝承に対する深い感謝の念を抱いていました。その感謝の気持ちと、技術の賜物としての作品を寄贈したいという意向を、1995年に来日したフランス国立ギメ東洋美術館館長フランソワ・ジャリージュ氏を通じて、当時のフランス文化大臣ジャック・トゥーボン氏に伝えました。この申し出はただちに了承され、大臣から正式な作品寄贈の要請が行われ、ギメ美術館への収蔵が決定しました。

当時既に完成していた「源氏物語錦織絵巻」の第1巻と第2巻は、まずフランス共和国に寄贈されました。その後、2002年に第3巻が、そして伊太郎氏の逝去と最終巻完成を経て、2008年に第4巻が寄贈され、全4巻の収蔵が完了しました。この収蔵完了を記念して、2009年11月からはギメ東洋美術館にて、「源氏物語の糸を辿って－織匠山口伊太郎へのオマージュ（'Au fil du Dit du Genji - Hommage à Maître Yamaguchi'）」と題する特別展が開催され、その偉業と作品が多くの人々に紹介されました。また、長年の功績と国際貢献が認められ、伊太郎氏はフランス共和国よりオフィシエ芸術文化勲章を受章しています。

「源氏物語錦織絵巻」は、全2セットが制作されました。1セットは前述のフランス国立ギメ東洋美術館に恒久的に収蔵されており、もう1セットは、伊太郎氏が創業した帯屋「紫紘（しこう）」株式会社が所蔵しています。伊太郎氏は生前、「源氏物語錦織絵巻」全巻を世界の五大陸に分散して残し、将来的な天変地異などから永く保存されること、そして織物制作を志す次世代の参考になることを強く願っていました。その壮大な遺志を受け、伊太郎氏に師事した人々や関係者によって、その実現に向けた努力が今も続けられています。

なお、「源氏物語錦織絵巻」は、その名の通り「錦織」の技法を用いて制作されており、インターネット上などで一部「唐織による」とする記述が見られますが、これは誤りであると明記されています。

山口伊太郎氏の生涯にわたる織物制作への情熱と、西陣織業界への多大な貢献、そして「源氏物語錦織絵巻」という不朽の芸術作品を生み出した功績は、日本の伝統工芸史において重要な足跡を残しました。彼の作品は、国内はもとより、フランスをはじめとする海外各地でも展覧会が開催され、その高い芸術性が広く称賛されています。

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