引越し蕎麦

引越し蕎麦とは

引越し蕎麦とは、引っ越しをした人が、近隣住民への挨拶として蕎麦を配る習慣のことです。この風習は、江戸時代に始まり、少なくとも天明年間には江戸で広く行われていました。それ以前は、引っ越しの際に小豆粥を配っていたとされています。

引越し蕎麦の歴史

新島繁の『蕎麦の事典』によると、引越し蕎麦は江戸中期ごろから始まったとされ、江戸を中心とした習慣でした。上方では、この習慣は存在しなかったとされています。引っ越しをした人は、大家や差配人（現代でいう管理人）にはせいろ5枚、隣近所にはせいろ2枚の蕎麦を配りました。これは「おそばに参りました」という言葉にかけた洒落であり、江戸っ子の間では、引っ越しの挨拶には蕎麦を配ることが決まっていました。

江戸時代には、乾蕎麦は一般的ではなかったため、蕎麦屋に茹でた蕎麦を手配し、せいろで配っていました。1835年（天保6年）に刊行された『街廼噂』には、江戸で引っ越しの際に蕎麦を配るのは、二八蕎麦が2つでわずか32文と安価だったためだと書かれていますが、これは噂話を集めた本であり、真偽のほどは不明です。

明治時代や大正時代の東京では、引越し蕎麦は転居の際の必須の習慣として定着していました。引っ越してきた人が近所の蕎麦屋に依頼すると、蕎麦屋は慣れたもので、隣近所や大家に決まった量の蕎麦を出前してくれました。代金は、引っ越してきた人が支払いました。

明治時代には、小腹が空くおやつ時を見計らって蕎麦を配っていましたが、食べきれない人もいたため、明治末期頃には、蕎麦屋が「蕎麦切手」という一種の食券を発行するようになりました。引っ越してきた人は、蕎麦屋で蕎麦切手を発行してもらい、大家やご近所に配り、好きな時に蕎麦を食べてもらうという方法が大正時代には行われるようになりました。蕎麦切手は、店ごとに様式が異なり、厚紙に金額を手書きし、店のハンコを押しただけの簡易なものでした。

大正12年の関東大震災前は、東京では蕎麦切手を配ることが一般的でしたが、満州事変（1931年-33年）の頃には、一般的ではなくなりました。

蕎麦から他の品物へ

明治時代には、茹でた蕎麦を干した「干しそば」が長野で発明され、東京でも次第に乾蕎麦（蕎麦の乾麺）の袋売りが一般的になりました。そのため、蕎麦の乾麺を化粧箱に入れて配る人もいました。現在では、化粧箱に入った引越し蕎麦を販売している業者もあり、ネット通販でも購入できます。

昭和時代に入ると、蕎麦の代わりにタオル、お菓子、洗剤、石鹸などの粗品を配る人が増えていきました。平成時代には、引越しの挨拶そのものをする人が減り、令和時代の現在では、引越しの挨拶をする人は6割程度です。2016年のアンケート調査では、引越しの挨拶の粗品として、タオルが31.3%で1位であるのに対し、蕎麦は4.3%で8位となっており、引越し蕎麦の習慣は薄れてきていることがうかがえます。

現代における引越し蕎麦

現在では、引越し蕎麦の習慣は、地域や個人の意識によって異なっています。引越しの挨拶をすること自体が少なくなってきており、蕎麦を配るという習慣も、過去のものとなりつつあります。しかし、引越し蕎麦は、かつての江戸っ子たちの粋な心意気を示す、日本の文化遺産の一つとして、記憶されるべきでしょう。

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