弦楽五重奏曲 (ベートーヴェン)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン：弦楽五重奏曲 ハ長調 作品29

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって1801年に作曲され、翌1802年に出版された「弦楽五重奏曲ハ長調 作品29」は、彼の数少ない弦楽五重奏曲の中で、唯一オリジナルの構想に基づいた室内楽作品として知られています。ベートーヴェンは生涯に3曲の弦楽五重奏曲を残しましたが、そのうち2曲（変ホ長調 作品4とハ短調 作品104）は、それぞれ既存の八重奏曲やピアノ三重奏曲からの編曲版です。これに対し、作品29は五重奏曲として最初から構想された点で特異な存在と言えます。編成はヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ1という標準的な弦楽五重奏の形態をとっています。

この作品は、作曲家の重要なパトロンであり理解者であったモリッツ・フォン・フリース伯爵に献呈されました。ベートーヴェンは伯爵に対し、ヴァイオリンソナタ第4番、第5番や、後の傑作である交響曲第7番など、複数の重要な作品を捧げています。本作は、初期の円熟期を示す作品18の弦楽四重奏曲集の後に作曲されており、ベートーヴェンが新たな表現手法を模索し、中期様式へと移行しつつあった時期の重要な室内楽作品として位置づけられます。全曲の演奏時間は約30分です。

楽曲構成

本作品は、伝統的なソナタの形式に基づいた4つの楽章で構成されています。

第1楽章 アレグロ・モデラート

ハ長調、4分の4拍子。ソナタ形式。穏やかながらも推進力のあるテンポで開始されます。冒頭では、2本のヴァイオリンによって歌うような主要主題が提示されます。これに続く経過句を経て現れる第2主題は、当時のソナタ形式で通例とされていた属調（この場合はト長調）ではなく、平行調であるイ短調の同主調にあたるイ長調で提示されます。この調性関係の大胆な扱いは、ベートーヴェンがこの時期から積極的に試み始めた調的・和声的な実験の一つであり、彼の作風が古典派の規範から脱却し、独自の表現領域へと踏み込み始めたことを明確に示しています。展開部では主に第1主題の動機が展開され、再現部へと続きます。

第2楽章 アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ

ヘ長調、4分の3拍子。ソナタ形式。非常に表情豊かで、深く歌い上げるような緩徐楽章です。ここでは美しい旋律が奏でられ、落ち着いた雰囲気の中に内省的な感情が込められています。ソナタ形式に従って主題が展開された後、再現部では主要主題と第2主題の両方が、オリジナルの提示とは異なる繊細な装飾を伴って再現されます。この装飾は楽章に一層の表現の奥行きを与えています。

第3楽章 スケルツォ

アレグロ、ハ長調、4分の3拍子。三部形式。溌剌としたスケルツォ主部と、対照的なトリオ部からなります。主部の冒頭では、リズミカルな主題が各パートに順々に現れ、活気あふれるアンサンブルが展開されます。中間部のトリオでは、主題がカノン風に、つまり複数の楽器が時間差をおいて同じ旋律を追唱する形で導入されるのが特徴です。スケルツォ主部、トリオ、スケルツォ主部という構成をとり、全体として躍動感と構成美を兼ね備えています。

第4楽章 プレスト

ハ長調、8分の6拍子。ソナタ形式。急速なテンポで、快活な雰囲気に満ちた終楽章です。ロンド形式の要素も感じさせる活発な主題を中心に展開されます。この楽章の特徴的な点として、再現部とコーダの直前に、付点リズムを用いた挿入句が置かれていることが挙げられます。この挿入句には「アンダンテ・コン・モート・エ・スケルツォーソ」という独特の指示が付されており、楽章全体の流れの中に変化とユーモアをもたらしています。

本作は、ベートーヴェンの初期様式から中期様式への重要な橋渡しとなる作品であり、特に第1楽章に見られる調性的な冒険は、後の偉大な作品群を予感させるものです。室内楽におけるベートーヴェンの発展を理解する上で欠かせない作品の一つと言えるでしょう。

ベートーヴェンの他の弦楽五重奏曲

前述の通り、ベートーヴェンが残した他の2曲の弦楽五重奏曲は、自作からの編曲版です。

変ホ長調 作品4: 1795年出版。1792年に作曲された八重奏曲 変ホ長調 作品103（管楽器のための作品）を自身で編曲したものです。
ハ短調 作品104: 1817年出版。初期の傑作であるピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調 作品1-3を、友人の依頼を受けて編曲したものです。

この他にも、ベートーヴェンは弦楽五重奏の編成のために、1817年頃にフーガ ニ長調 作品137（死後出版）や、未完に終わった前奏曲とフーガ ニ短調を遺しています。作品29は、これらの中で唯一、最初から弦楽五重奏曲として構想された作品として、特別な価値を持っています。

もう一度検索