忿

仏教において、私たちが苦しみや迷いの世界に留まる原因とされる様々な心の汚れ、すなわち煩悩（ぼんのう）の一つに数えられるのが、『忿（ふん）』です。この心の状態は、古代インドの言葉であるサンスクリット語ではkrodha（クローダ）と呼ばれます。

『忿』は、仏教の教えでは、他の煩悩、特に『瞋（しん）』に付随して発生すると考えられています。『瞋』が、自らの意に反することに対する一般的な怒りや嫌悪といった基本的な感情であるのに対し、『忿』は、その怒りの感情がさらに高まり、より激しい憤激（ふんげき）の状態に至ったものを指します。単なる不満や不機嫌といったレベルを超え、制御が効かなくなりそうなほどの強い怒りやいきどおりの感情が、『忿』の本質です。

この『忿』という心の状態は、非常に激しい性質を帯びています。自分の気に入らない事柄や状況に直面した際に、心が沸騰するかのように激しく高ぶります。その高ぶりは、時には理性を麻痺させ、例えば「杖で人を打とうとする」といった、具体的な暴力行為に及びかねないほど、危険な衝動を伴う感情として説明されます。このような『忿』の心に囚われてしまうと、言葉遣いが荒々しくなったり、他者に対して攻撃的な態度をとったりと、粗暴な言動が生まれやすくなります。それは、周囲との関係性を損なうだけでなく、自らの心にもネガティブな影響を与え、さらなる苦悩を招くことになります。

仏教では、煩悩を深く理解し、それらを克服することが解脱への道と考えられているため、煩悩の性質やその分類について、古くから詳細な分析が重ねられてきました。部派仏教時代の有力な学派であった説一切有部（せついっさいうぶ）は、この世界のあらゆる存在や現象、心の働きを細かく分類する独自の体系として、五位七十五法（ごいしちじゅうごほう）を構築しました。この体系において、『忿』は、精神活動に付随して起こる比較的小さな煩悩をまとめた小煩悩地法（しょうぼんのうじほう）の一つとして位置づけられています。これは、『忿』が、より根源的な煩悩というよりは、他の心の働きや煩悩と連動して、比較的頻繁に現れる性質を持つことを示しています。

また、大乗仏教において心のあり方を探求した重要な学派である唯識派（ゆいしきは）でも、『忿』は煩悩として詳細に分析されています。唯識派の基本的な教えを体系的にまとめた論書である『大乗百法明門論（だいじょうひゃっぽうみょうもんろん）』によれば、『忿』は、私たちの心の主体である心王（しんのう）に常に随伴して生じ、心を汚染する働きを持つ煩悩のグループである随煩悩位（ずいぼんのうい）に分類されます。随煩悩はさらに細かく分けられますが、『忿』は、その中でも比較的小さな働きながらも、日常的に生起しやすい煩悩として、小随煩悩（しょうずいぼんのう）の一つとされています。唯識派によるこの分類もまた、『忿』が私たちの日常生活において、しばしば直面し、注意を払うべき心の状態であることを強調していると言えます。

このように、『忿』は仏教において、単なる一時的な感情ではなく、私たちが清らかな心で生きることを妨げ、苦悩の世界に繋ぎ止める重要な煩悩として捉えられています。その激しい怒りやいきどおりの性質は、粗暴な言動や行為を引き起こし、自己と他者の双方に危害をもたらす可能性を秘めています。この『忿』を含む煩悩の性質を深く理解し、それらを静め、乗り越えることが、仏道修行の核心的な目標の一つとなるのです。

『忿』に関連する言葉としては、『忿怒（ふんぬ）』などがあり、激しい怒りそのものを指し示す際に用いられます。これは、『忿』がもたらす心の状態をより端的に表していると言えるでしょう。

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