慢

慢（まん）とは

仏教における「慢」の概念

仏教において「慢」（まん）は、私たちの心の苦しみの根源となる「煩悩（ぼんのう）」の中でも特に重要なものの一つとされています。この言葉は、古代インドで使われたサンスクリット語の Māna（マーナ）という単語に由来しており、自己を他者と比較することによって生じる、高ぶりや見下し、あるいは自分自身への過度な執着といった心の動きを指します。慢は、単に鼻にかけるといった日常的な「おごり」だけでなく、様々な形で私たちの心を惑わし、真実を見る目を曇らせてしまいます。

他の煩悩との関連性

慢は、仏教の教えにおいて、他の煩悩と深く関連していると考えられています。例えば、あらゆる苦悩の根源とされる「渇愛（かつあい）」（タンハー）から生まれる煩悩の一つとして挙げられます。渇愛とは、満たされない欲望や、得たものへの執着ですが、これが満たされないことへの不満や、満たされた自分への過剰な評価が、慢という形で現れると考えられています。

仏教体系における位置づけ

慢は、仏教の煩悩リストにおいて、その重要性から多くの箇所で取り上げられています。

大乗仏教で特に重視される、修行者が克服すべき五つの根本的な煩悩「五毒（ごどく）」の一つに数えられます。（通常、貪・瞋・癡・慢・疑）
大乗仏教の心理分析学であるアビダルマにおいては、「貪（とん）・瞋（しん）・癡（ち）・慢（まん）・疑（ぎ）・悪見（あっけん）」という、六つの主要な煩悩心所（しんじょ）の一つとして位置づけられています。心所とは、心の働きに伴って生じる従属的な心の要素を指します。
上座部仏教のアビダルマでは、十四種類ある不善心所（ふぜんしんじょ）の一つとして挙げられています。これは、衆生の心を不健全な状態にする心の働きです。
悟りを得るための障壁となる十の束縛「十結（じゅうけつ）」の一つにも含まれています。
部派仏教の重要な論書である倶舎論（くしゃろん）においては、常に現れるわけではないものの、現れると不善を引き起こす「八不定地法（はちふじょうじほう）」の一つとして論じられています。（尋・伺・眠・侮・貪・瞋・癡・悪見）

これらのリストに共通するのは、慢が単なる一時的な感情ではなく、私たちの悟りを妨げる根強い心の癖であるという認識です。

「慢」と「憍」の違い

「慢」と似た概念に「憍（きょう）」があります。サンスクリット語のMānaを「憍慢」とまとめて訳すこともありますが、厳密には区別されることがあります。慢は前述の通り「他者との比較」に基づいて生じる思い上がりや高ぶりです。これは煩悩の中でも比較的根源的なものと見なされます。

一方、憍は他者との比較を伴わず、自分自身が持つ家柄、財産、地位、学識、能力、容姿など、特定の要素に単に驕り高ぶる心の状態です。憍は慢に付随して生じやすいことから、「随煩悩（ずいぼんのう）」、つまり根本的な煩悩に付随して起こる煩悩の一つとされることがあります。慢が「私」という自我への執着を基盤とするのに対し、憍は「私」が持つ「属性」に対する単純な高慢さと言えるでしょう。

「慢」の多様な現れ方：七慢など

慢は、その生じ方や対象によってさらに細かく分類されることがあります。代表的なものに「七慢（しちまん）」があります。

1. 慢: 同等の能力を持つ者に対して、自分が勝っていると思い込む心。
2. 過慢（かまん）: 自分より優れている者に対して同等だと思い込むか、同等の者に対して自分が勝っていると思い込む心。
3. 慢過慢（まんかまん）: 自分よりはるかに優れている者に対して、自分が優れていると思い込む心。
4. 我慢（がまん）: 一時的な存在である五蘊（ごうん）から成る自己を unchanging な実体として捉え、それに強く執着する心。自己への強いこだわり。
5. 増上慢（ぞうじょうまん）: まだ悟りを開いていないのに開いたと思い込んだり、得ていない悟りの段階を得たと思い込んだりする心。修行者にとって非常に危険です。
6. 卑慢（ひまん）: 自分よりはるかに優れている者に対して、ほんの少しだけ劣っていると思い込む心。劣等感のようでありながら、比較による自己評価の歪み。
7. 邪慢（じゃまん）: 罪を犯したり悪い行いをしたりしたにもかかわらず、それを反省せず、かえって誇る心。

七慢の他にも八慢、九慢といった分類がありますが、いずれも自己を歪んで評価し、「私」という概念に強く固執することで、真の福徳や悟りを得ていないにもかかわらず、それらを得ているかのように錯覚する煩悩の本質を説明しています。

「私」という幻覚と慢

仏教では、固定的な「私」という実体は存在しないと説かれますが、私たちは無意識のうちに「私」という概念を生み出し、それに捉われます。この「私」という幻のような自我への執着こそが、慢が生じる根本的な出発点です。

「私」という基準が一旦できてしまうと、私たちは自然と他者との間に比較の視点を持つようになります。この比較は主に以下の三つの形で現れます。

私が優れている（seyya māna）：自分は他者より優れているという思い込み。
私と等しい（sadisa māna）：自分は他者と同等であるという思い込み。
私が劣っている（hina māna）：自分は他者より劣っているという思い込み。

これらの比較は、自己の存在を相対的に位置づけようとする心の働きであり、優越感も劣等感も、根底では「私」という幻覚から生じる慢の現れなのです。

慢の克服

パーリ経典など初期の仏教聖典においても、慢は悟りへの重要な障害である「十結」の一つとして明確に位置づけられています。自己と他者との間に比較を持ち込み、「私」という基準で物事を判断する心を壊し、慢を克服した者こそが、真の解脱、すなわち菩提（ぼだい）、つまり悟りの境地に至ることができると教えられています。慢を乗り越えることは、自己中心的な見方から解放され、世界や自己をありのままに、そして平等に理解するための不可欠なステップなのです。

このように、慢は仏教において、自己への深い執着と、そこから生じる他者との比較に基づく、私たちを苦しめる根源的な煩悩として捉えられています。この慢の性質を深く理解し、それに気づき、手放していく努力こそが、仏道修行の重要な柱の一つと言えるでしょう。

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