方舟さくら丸

方舟さくら丸

『方舟さくら丸』（はこぶねさくらまる）は、日本の作家、安部公房による長編小説です。1984年11月に新潮社から「純文学書き下ろし特別作品」として刊行されました。

執筆背景と特記事項

本作は、安部公房が当時導入したばかりのワードプロセッサーを用いて執筆された最初期の商業小説の一つとして知られています。当初は『志願囚人』という仮題で書き進められていましたが、ワードプロセッサーでの作業過程を経て現在の題名に改められました。また、短編小説『ユープケッチャ』は、この長編作品のプロローグ的な位置づけにあたります。

あらすじ

物語の主人公は、人から「豚」と呼ばれることを嫌い、「モグラ」と呼ばれたいと願う元カメラマンです。彼は世間からは引きこもり同然の奇人と思われていますが、その実、迫りくる世界滅亡の危機に備え、広大な地下採石場跡に現代版の「ノアの方舟」とも呼ぶべき巨大なシェルターを秘密裏に建設していました。そして彼は、共にシェルターで難を逃れるに足る人間を探して地上をさまよいます。

やがて彼が見つけ出したのは、自らの排泄物を食べて生きる奇妙な虫「ユープケッチャ」を売って生計を立てる元自衛官の「昆虫屋」、かつて高利貸しの取立て屋だった男「サクラ」、そしてその「サクラ」の恋人で、結婚詐欺の経験を持つ女性といった、社会の周縁にいるような異質な面々でした。

彼らがシェルターでの奇妙な共同生活を始めたところに、さらに予期せぬ人物たちが現れます。スイート・ポテトの行商人である「千石屋」、高齢者による清掃ボランティア団体「ほうき隊」、不良少年グループ「ルート猪鍋」といった集団、さらにはこれら二つの集団を率いる主人公「モグラ」の父親までが登場し、物語は大きく動き出します。当初の世界滅亡に備えた「ごっこ遊び」のような状況は、これらの外部からの干渉によって、徐々に現実的な軋轢や生存競争を含むサバイバルゲームへと変質していきます。

評価

文学研究者であるJ・Ｗ・カーペンターは、本作を旧約聖書に登場するノアの方舟の物語と対比させて論じています。カーペンターは、『方舟さくら丸』が方舟（シェルター）の建造から出帆（世界滅亡の到来）までの具体的かつ日常的な困難や葛藤を克明に描写している点を指摘します。そして、物語の中で方舟が実際の破局を迎える前に内部崩壊していく様子は、作者が意図的に描いた、その破局の避けられない必然性を示唆していると評価しています。

関連作品

短編小説『ユープケッチャ』 - 本作のプロローグにあたる作品です。

書誌情報

単行本
新潮社、1984年11月刊行。ISBN 4-10-600641-3。
文庫本
新潮社〈新潮文庫〉、1990年10月刊行。ISBN 4-10-112122-2。2020年1月に改版されています。
全集
* 『安部公房全集』第27巻（1980.1-1984.11）に収録。新潮社、2000年1月刊行。ISBN 978-4-10-640147-3。

本作は、閉鎖された空間における人間関係の歪み、世界の終末という極限状況における人間の行動、そして現代社会の不条理を寓話的に描き出した安部公房後期の重要な作品の一つと言えるでしょう。

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