於染久松色読販

於染久松色読販（おそめひさまつ うきなの よみうり）

『於染久松色読販』は、江戸時代後期の文化10年（1813年）3月に江戸・森田座で初演された歌舞伎の演目です。作者は当時の人気狂言作家である四世鶴屋南北。この作品は、一人の俳優がめまぐるしく様々な人物に早替わりしながら演じ分ける演出が最大の見どころであり、特に主要な七つの役を一人で勤めることから、通称「お染の七役」として広く知られています。

初演時には、当時「江戸歌舞伎随一の美貌」と讃えられた女方、五世岩井半四郎がこの七役（油屋娘お染、丁稚久松、許嫁お光、奥女中竹川、後家貞昌、土手のお六、子守お作）を見事に演じ分け、劇場は大いに賑わい、大当たりを記録しました。

明治以降、しばらく上演が途絶えていましたが、昭和9年（1934年）に歌舞伎劇団前進座の創立メンバーであった五代目河原崎國太郎が、渥美清太郎による改訂脚本を用いて復活上演を行いました。この改訂の際に、初演時の七役の一つであった「子守お作」が「芸者小糸」に変更され、これが現代の定番の七役となっています。

第二次世界大戦後も、この作品は繰り返し上演されており、六代目中村歌右衛門、四代目中村雀右衛門、五代目坂東玉三郎といった歌舞伎界を代表する立女方や、近年では中村七之助、中村壱太郎といった俳優が七役を演じ、観客を魅了しています。現在上演される『於染久松色読販』の多くは、復活上演時の渥美清太郎による改訂脚本・演出を基礎としています。

この作品は通常、通し狂言として三幕七場で上演されます。主な場としては、序幕の「柳島妙見」「橋本座敷」「小梅莨屋」、二幕目の「瓦町油屋（見世先）」「同二階座敷」「同裏手土蔵」、そして大詰めの「向島道行（浄瑠璃『心中翌の噂』）」があります。

「早替わり」は文化文政期に歌舞伎で大流行した演出技法の一つであり、本作はその代表的な例として挙げられます。特に、大詰めの舞踊劇である「心中翌の噂」では、女方のお染と、糸立て（ござ）を被った立役（男役）の久松がすれ違いざまに一瞬で役が入れ替わる早替わりがあり、この場の白眉とされています。

物語の筋は、浅草瓦町にある質屋を兼ねた油屋の娘・お染と、そこに丁稚奉公している久松との間に芽生えた悲恋が主軸となります。これに、久松が実は武士であり、主筋の御家騒動に巻き込まれて家宝の短刀を探しているという展開が絡み合います。この物語は、江戸ではなく大坂で実際に起こったと伝えられる心中事件（ただし諸説あり、定かではありません）を元にした多くの「お染久松もの」の一つですが、舞台を大坂から江戸に移して創作されています。

一人の役者が演じ分ける七つの役は、それぞれ異なる個性と扮装を持ち、俳優の力量が試されます。主な七役は以下の通りです。

油屋娘お染: 浅草瓦町の質屋油屋の娘で、丁稚の久松と深く愛し合っています。豪華な花簪（かんざし）をつけ、総友禅の振袖を纏った華やかな姿です。
丁稚久松: 表向きは油屋の丁稚ですが、その正体は武士。主筋の石津家のために、紛失した家宝の短刀「牛王義光（ごおうよしみつ）」を密かに探索しています。
許嫁お光: 久松の親代わりである庵崎の久作の娘で、久松の正式な許嫁です。歌舞伎における純朴な田舎娘の典型で、緑系統の衣装を身につけることが多いです。
奥女中竹川: 久松の姉にあたる人物。弟と同様に、短刀紛失の責任を取って切腹した父の汚名を晴らすため、短刀の行方を探しています。
芸者小糸: 柳橋の芸者。油屋の多三郎と関係があります。黒地で柄が少なく、粋で洗練された姿をしています。
土手のお六: 奥女中竹川の元召使いで、夫の鬼門の喜兵衛と共に向島の小梅代地で煙草屋を営む貧しい女性です。生活苦から強欲な性格となり、歌舞伎の「悪婆（あくば）」役の代表的な存在。髪型は「馬の尻尾」と呼ばれる独特の結び方です。
* 後家貞昌: 浅草瓦町で質屋油屋を営む後家で、お染の母親（多三郎の義母）です。娘の行く末を案じています。

これらの対照的な七役を、息もつかせぬ早替わりで演じ分けることで、主演俳優は様々な人物の人間模様や感情を見事に描き出し、観客を物語の世界へと引き込みます。『於染久松色読販』は、華やかな早替わりと哀切な物語が融合した、歌舞伎の魅力が凝縮された名作と言えます。

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