東海道江尻田子の浦略図

葛飾北斎『東海道江尻田子の浦略図』：富士山と海、そして人々の営み

葛飾北斎による名作揃物『冨嶽三十六景』の中でもひときわ目を引く作品の一つに、「東海道江尻田子の浦略図」があります。この絵は、雄大な富士山を背景に、東海道の宿場町・江尻の風景を描いた一枚です。北斎の落款には「前北斎為一筆」と記されています。

絵画の描写：静寂と躍動の対比

遠景には、雪を頂く富士山が威風堂々とそびえ立ち、その裾野には三保の松原と思われる緑豊かな地が広がっています。一方、手前には太平洋の荒波が描かれ、大小四艘の船が波間に浮かびます。これらの船は、富士山の稜線と奇妙な相似形を成しており、画面に独特のリズムを与えています。浜辺では、塩田で働く人々の小さな姿が見え、静寂の中に人々の営みの活気が感じられます。

場所の特定：諸説入り乱れるロケーション

作品名に「江尻」とありながら「田子の浦」も併記されている点が興味深いところです。現代の田子の浦は富士市近郊ですが、古くは清水区から蒲原町近郊の海岸線を含む広い範囲を指していました。江尻宿からは距離があり、描かれた場所について諸説が存在します。吉原宿や由比宿の風景ではないかという説も出ています。

日野原健司氏は、歌川広重の『東海道五十三次』や北斎自身の他の作品と比較検討し、江尻宿近郊の清水湊の沖合から由比・蒲原方面を望んだ風景ではないかと推察しています。これは、複数の作品における塩田の描写などを比較した結果に基づいています。

「略図」の意味と和歌との関連性

題名にある「略図」は、単なる略図ではなく、和歌を視覚的に表現した作品ではないかという解釈があります。『万葉集』の山部赤人の歌「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」や、『拾遺和歌集』の大中臣能宣の歌「田子の浦に霞の深く見ゆるかな藻塩の煙立ちや添ふらん」を、北斎独自の表現で描いたという説です。

北斎の後年の作品『富嶽百景』二編「文邊の不二」は、本作品と非常に構図が似ており、歌人が描かれていることから、古典和歌をモチーフにしたという説を裏付けるものとなっています。北斎は、自然風景の中に人間の感情や歴史を重ね合わせ、より奥深い作品を作り上げていたと言えるでしょう。

北斎の風景表現と芸術性

「東海道江尻田子の浦略図」は、単なる風景画にとどまらず、北斎の風景描写の卓越性と、古典文学への深い理解を示す作品です。富士山という圧倒的な自然と、人々の営み、そして和歌の世界観が、巧みに融合されています。画面構成、遠近法、そして大胆な構図は、北斎の芸術性を余すことなく示しており、観る者の心を捉えて離しません。この作品を通して、北斎が自然と人、そして過去と現在をどのように捉えていたのかを深く考えることができるでしょう。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年
* 『版画芸術』203巻、阿部出版、2024年

もう一度検索