楽園の四つの河
『楽園の四つの河』（または『四大陸』）は、バロック期のフランドルを代表する画家、ピーテル・パウル・ルーベンスが1615年頃に制作した油彩の寓意画です。
この作品は、八十年戦争の休戦期間である「12年停戦協定」中に描かれました。画面には、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を擬人化した女性像と、それぞれの主要河川であるドナウ川、ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川を擬人化した男性像が描かれています。また、前景にはプットーやワニ、トラの姿も見られます。
特に注目すべきは、画面中央に描かれたアフリカを擬人化した女性像です。彼女はルーベンスが当時描いた数少ない黒人女性の一人であり、鑑賞者の方を向いている唯一の人物でもあります。
本作が描かれた背景には、ルーベンスが軍事的対立の後にアントウェルペンに戻り、平和な状況を望んでいたという状況があります。ルーベンスは芸術家であると同時に外交官としての側面も持っており、休戦協定終了までの間、スペイン領ネーデルラントを代表して、フランスやイングランドとの交渉にもあたっていました。この外交活動を通して、ルーベンスは平和というテーマに深く関心を抱くようになりました。
絵画の舞台は湿地帯で、人物たちは水辺に座っています。画面左からヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカの順に配置され、それぞれの地域を象徴する川の擬人像が寄り添っています。ルーベンスの時代には、オーストラリアの存在は知られていなかったため、描かれていません。ヨーロッパの擬人像は他の女性像よりも高い位置に描かれており、当時のヨーロッパ中心的な視点を表していると考えられます。一方、アフリカの擬人像は最も低い位置に描かれています。
動物描写もこの絵画の特徴の一つです。ワニから子供のトラを守る雌トラはアジアの象徴として描かれ、ドナウ川の擬人像は舵を握り、ナイル川の擬人像は古典的な建築物に寄りかかっています。プットーたちはワニの周りで戯れていますが、ワニはトラに注意を向けています。ルーベンスは動物の描写に長けており、この時期には珍しい動物の素描を多く残しています。
ルーベンスは、豊満で元気な女性を描くことを好みました。この絵画に描かれたアフリカの女性像もその一つで、上半身は他の女性同様に曲線美を示しています。当時の学者たちはナイル川を黒人として描いたパウサニアスの記述に言及しており、ルーベンスはナイル川の擬人化を黒人女性として描くことを選択しました。腕で隠された部分は、当時のナイル川の水源が未解明であったことを示唆しているかもしれません。
美術史家のエリザベス・マクグラスは、この絵画に描かれた女性像を、四大陸ではなく大河の水源を表す水のニンフと解釈しました。また、ジャン・ミッシェル・マッシングは、チグリス川とユーフラテス川をドナウ川とラプラタ川の代わりに提案し、旧約聖書「創世記」に登場する楽園の川と関連付けました。この解釈は、ルーベンスの古典的な知識と、幅広い層に受け入れられる寓意表現であったことを示唆しています。
また、カトリックの広がりの象徴として解釈する説や、貿易の象徴、あるいは単に他国についての知識を披露したという解釈も存在します。ルーベンスが敬虔なカトリック教徒であったことや、当時の社会情勢などを考慮すると、これらの解釈もまた説得力があります。
この作品は、1685年にプラハ、1733年にはウィーンのインペリアル・コレクションに記録されています。2015年には大規模な修復が行われ、絵画の表面洗浄や、キャンバスの交換、額縁の修復などが実施されました。この修復の際に、かつて絵画がより小さかったことが判明し、額縁の隙間を埋めるためにキャンバスが追加されたことが明らかになりました。
この作品は現在、ウィーンの美術史美術館に所蔵されており、ルーベンスの豊かな才能と当時の文化、思想を今に伝える重要な作品として、高く評価されています。
黒江光彦監修『西洋絵画作品名辞典』三省堂（1994年）
パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎（1991年）
落合桃子「西洋近世美術におけるアジアの表象としてのガンジス川の河神像 : ベルニーニ《四つの河の噴水》をめぐって」『福岡大学人文論叢』55巻, 1号, p. 93-111, （2023年）
Strings, Sabrina (2020-09-10). Fearing the Black Body. New York University Press. ISBN 978-1-4798-9178-8.
Rosenthal, Lisa (2005). Gender, Politics, and Allegory in the Art of Rubens. Cambridge University Press. pp. 41
Massing, Jean Michel (2010). The image of the Black in western art (2nd ed.). Belknap
McGrath, Elizabeth (1993). “River-Gods, Sources and the Mystery of the Nile: Rubens’s Four Rivers in Vienna”. Die Malerei Antwerpens. Gattungen, Meister, Wirkungen. Internationales Kolloquium, Wien, 1993: 72–82.
Hollander, Martha (2008-05-27). “Martha Hollander. Review of \"Gender, Politics, and Allegory in the Art of Rubens\" by Lisa Rosenthal.”. caa.reviews. doi:10.3202/caa.reviews.2008.50.
AlSayyad, Nezar (2019-10-21). Nile. doi:10.1515/9781474458627.
美術史美術館公式サイト, ピーテル・パウル・ルーベンス『楽園の四つの河』
この作品は、八十年戦争の休戦期間である「12年停戦協定」中に描かれました。画面には、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を擬人化した女性像と、それぞれの主要河川であるドナウ川、ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川を擬人化した男性像が描かれています。また、前景にはプットーやワニ、トラの姿も見られます。
特に注目すべきは、画面中央に描かれたアフリカを擬人化した女性像です。彼女はルーベンスが当時描いた数少ない黒人女性の一人であり、鑑賞者の方を向いている唯一の人物でもあります。
制作背景
本作が描かれた背景には、ルーベンスが軍事的対立の後にアントウェルペンに戻り、平和な状況を望んでいたという状況があります。ルーベンスは芸術家であると同時に外交官としての側面も持っており、休戦協定終了までの間、スペイン領ネーデルラントを代表して、フランスやイングランドとの交渉にもあたっていました。この外交活動を通して、ルーベンスは平和というテーマに深く関心を抱くようになりました。
作品詳細
絵画の舞台は湿地帯で、人物たちは水辺に座っています。画面左からヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカの順に配置され、それぞれの地域を象徴する川の擬人像が寄り添っています。ルーベンスの時代には、オーストラリアの存在は知られていなかったため、描かれていません。ヨーロッパの擬人像は他の女性像よりも高い位置に描かれており、当時のヨーロッパ中心的な視点を表していると考えられます。一方、アフリカの擬人像は最も低い位置に描かれています。
動物描写もこの絵画の特徴の一つです。ワニから子供のトラを守る雌トラはアジアの象徴として描かれ、ドナウ川の擬人像は舵を握り、ナイル川の擬人像は古典的な建築物に寄りかかっています。プットーたちはワニの周りで戯れていますが、ワニはトラに注意を向けています。ルーベンスは動物の描写に長けており、この時期には珍しい動物の素描を多く残しています。
黒人女性像について
ルーベンスは、豊満で元気な女性を描くことを好みました。この絵画に描かれたアフリカの女性像もその一つで、上半身は他の女性同様に曲線美を示しています。当時の学者たちはナイル川を黒人として描いたパウサニアスの記述に言及しており、ルーベンスはナイル川の擬人化を黒人女性として描くことを選択しました。腕で隠された部分は、当時のナイル川の水源が未解明であったことを示唆しているかもしれません。
作品の解釈
美術史家のエリザベス・マクグラスは、この絵画に描かれた女性像を、四大陸ではなく大河の水源を表す水のニンフと解釈しました。また、ジャン・ミッシェル・マッシングは、チグリス川とユーフラテス川をドナウ川とラプラタ川の代わりに提案し、旧約聖書「創世記」に登場する楽園の川と関連付けました。この解釈は、ルーベンスの古典的な知識と、幅広い層に受け入れられる寓意表現であったことを示唆しています。
また、カトリックの広がりの象徴として解釈する説や、貿易の象徴、あるいは単に他国についての知識を披露したという解釈も存在します。ルーベンスが敬虔なカトリック教徒であったことや、当時の社会情勢などを考慮すると、これらの解釈もまた説得力があります。
来歴と修復
この作品は、1685年にプラハ、1733年にはウィーンのインペリアル・コレクションに記録されています。2015年には大規模な修復が行われ、絵画の表面洗浄や、キャンバスの交換、額縁の修復などが実施されました。この修復の際に、かつて絵画がより小さかったことが判明し、額縁の隙間を埋めるためにキャンバスが追加されたことが明らかになりました。
この作品は現在、ウィーンの美術史美術館に所蔵されており、ルーベンスの豊かな才能と当時の文化、思想を今に伝える重要な作品として、高く評価されています。
参考文献
黒江光彦監修『西洋絵画作品名辞典』三省堂（1994年）
パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎（1991年）
落合桃子「西洋近世美術におけるアジアの表象としてのガンジス川の河神像 : ベルニーニ《四つの河の噴水》をめぐって」『福岡大学人文論叢』55巻, 1号, p. 93-111, （2023年）
Strings, Sabrina (2020-09-10). Fearing the Black Body. New York University Press. ISBN 978-1-4798-9178-8.
Rosenthal, Lisa (2005). Gender, Politics, and Allegory in the Art of Rubens. Cambridge University Press. pp. 41
Massing, Jean Michel (2010). The image of the Black in western art (2nd ed.). Belknap
McGrath, Elizabeth (1993). “River-Gods, Sources and the Mystery of the Nile: Rubens’s Four Rivers in Vienna”. Die Malerei Antwerpens. Gattungen, Meister, Wirkungen. Internationales Kolloquium, Wien, 1993: 72–82.
Hollander, Martha (2008-05-27). “Martha Hollander. Review of \"Gender, Politics, and Allegory in the Art of Rubens\" by Lisa Rosenthal.”. caa.reviews. doi:10.3202/caa.reviews.2008.50.
AlSayyad, Nezar (2019-10-21). Nile. doi:10.1515/9781474458627.
外部リンク
美術史美術館公式サイト, ピーテル・パウル・ルーベンス『楽園の四つの河』
もう一度検索
【記事の利用について】
タイトルと記事文章は、記事のあるページにリンクを張っていただければ、無料で利用できます。
※画像は、利用できませんのでご注意ください。
【リンクついて】
リンクフリーです。