死靈

『死靈』（しれい）は、戦後日本を代表する文学者、埴谷雄高が生涯をかけて取り組んだ思弁的な長編小説であり、氏の代表作として位置づけられています。

この作品は、当初壮大な全十二章の構想のもと、戦後の約半世紀という長大な歳月を費やして執筆が続けられましたが、残念ながら第九章までが完成したところで未完という形で幕を閉じました。構想の段階では、仏教の開祖である釈迦と、ジャイナ教の開祖である大雄（ヴァルダマーナ）との間の議論までが描かれる予定であったとされています。

作品の冒頭には、「悪意と深淵の間に彷徨いつつ／宇宙のごとく／私語する死霊達」というエピグラムが掲げられています。これは氏の評論集『不合理ゆえに吾信ず』からの自己引用であり、『死靈』が、埴谷文学の基底にある根源的な問題意識を、単なる論説ではなく、物語や登場人物の議論という形式を借りて具体的に表現しようとした、極めて壮大な試みであったことを明確に示しています。

作品の最初の発表は、文芸誌『近代文学』1946年1月号から始まり、1949年11月号までに第四章までが掲載されました。しかし、作者が腸結核を患ったこともあり、連載はここで中断されます。長い沈黙の期間を経て、作品は1975年に文芸誌『群像』で第五章が発表されることにより、再び動き出します。以後、続編は『群像』誌上で順次発表されていきました。この間、第五章までを収めた『定本 死靈』により、1976年には日本文学大賞を受賞しています。以後の章も講談社から単行本として刊行され続け、1998年2月から刊行が始まった『埴谷雄高全集』の第三巻には、『死靈』の全九章と、第九章の未定稿が収録されました。

埴谷氏自身は、第九章を書き終えた段階で、全九章と第九章未定稿をもって作品を完結したと見なす考えを持っていましたが、友人である文芸評論家の本多秋五らの説得を受け、第九章未定稿部分を撤回し、最終的に作品を未完という形で終わらせることに同意しました。しかし、第九章の完成後も、氏の思索の断片とも言うべき「『死靈』断章（一）～（五）」が、1996年から1997年にかけて『群像』に掲載されており、これらは後に『埴谷雄高全集』第十一巻に収められています。

作品への関心は高く、1995年1月にはNHK教育テレビの特集番組『ETV8特集 埴谷雄高・独白「死霊」の世界』が放送され、その内容は1997年に書籍としても刊行されています。また、2007年には、神奈川近代文学館にて、埴谷氏が遺した膨大な資料の中から、『死靈』の構想過程を示す詳細なメモが発見されました。これは1930年代に書かれたと見られるもので、いかに早くから『死靈』の構想が氏の中に存在し、文字通り生涯を賭した作品であったかを裏付ける貴重な発見となりました。これらの資料は文芸誌『群像』に転載され、研究者による解説も加えられています。

『死靈』は、初期の『近代文学』連載版と、第五章発表後の単行本化に際して改稿された講談社版とで、特に第四章までの記述に異同が見られます。作品は、「定本」、章ごとの単行本、三章ごとの単行本、そして全集など、様々な形態で刊行されてきました。埴谷氏は生前、文庫化には慎重な考えを持っていましたが、2003年には講談社文芸文庫として刊行され、より多くの読者が手に取ることが可能となりました。

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