水道哲学

松下幸之助が唱えた経営哲学の一つに、「水道哲学」があります。これは、彼の事業活動における基本的な考え方であり、単なる営利追求に留まらない、産業人の社会的な使命を強く意識したものです。

この哲学の根源には、松下幸之助自身の極めて厳しい幼少期での経験があります。物資が不足し、多くの人々にとって製品が高価で手に入れにくかった時代の記憶から、彼は誰もが必要なものを無理なく購入できる豊かな社会の実現を強く願うようになりました。この願いが、水道哲学という独自の思想へと昇華されていきます。

水道哲学の中心にあるのは、高品質な製品を、まるで水道から水が流れるかのように、安価かつ大量に供給することです。松下幸之助は、生活に不可欠でありながら、豊富に存在し安価であるために人々がその価値を普段意識しない水道水に注目しました。そして、産業に従事する者の役割もこれと同様に、生活に必要な物資を大量に生産し、できるだけ低い価格で提供することにあると考えたのです。

そうすることで、社会全体の物価水準を引き下げ、多くの消費者が容易に製品を手に入れることができるようになります。これは単に企業が利益を追求するだけでなく、貧困をなくし、人々の暮らしを物質的に豊かにすることを目指す、産業の社会的責任と貢献を重視する思想です。

この水道哲学は、1932年（昭和7年）5月5日に大阪の中央電気倶楽部で開催された、当時の松下電器製作所の第一回創業記念式典において、創業者の松下幸之助によって初めて公に示されました。彼はその式典で、「水道の水は、それ自体は大変価値のあるものであるが、それが豊富に供給され、極めて安価であるため、通行人はその価値を特別に感じない。産業を営む者の使命もまた、必要な物資を大量に、そして誰もが手に入れやすい廉価な価格で生産し供給することにある。それによって、世の中から貧困をなくし、人々の生活を豊かなものにすることができるのである」という趣旨の言葉を述べました。この発言は、その後の松下電器の経営の根幹を成す指針となりました。

水道哲学が目指した「低価格での大量供給」は、その後の日本の産業界や流通業界にも大きな影響を与えました。特に、消費者への低価格供給を追求した小売業との関係においては、象徴的なエピソードがあります。価格破壊や流通革命を標榜したダイエーの創業者である中内功氏との間には、「ダイエー・松下戦争」あるいは「30年戦争」と呼ばれる長期にわたる激しい企業間競争が繰り広げられました。これは、製造者と流通者という立場の違いはあれど、消費者に安く良いものを届けたいという共通の目標を持つ者同士が、それぞれの哲学に基づいて市場で対峙した歴史的な事例と言えます。

水道哲学は、単なる事業戦略ではなく、産業活動を通じて社会全体の福祉向上を目指す、経営者の高い志を示す哲学として、今日でも語り継がれています。

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