渡辺格 (分子生物学者)

渡辺 格

渡辺格（わたなべ いたる、1916年9月27日 - 2007年3月23日）は、20世紀後半の日本の生命科学分野において重要な足跡を残した分子生物学者です。姓は「渡邊」と表記されることもあります。島根県松江市に生まれ、東京府立五中、第一高等学校を経て、1940年に東京帝国大学理学部化学科を卒業しました。

大学では水島三一郎教授のもとで分光学の研究に取り組みましたが、やがてウイルスの世界に強い関心を抱くようになります。特に、遺伝子の本体解明に繋がる研究を進めていたマックス・デルブリュックやウェンデル・スタンリーといった海外の研究者の業績から大きな影響を受けました。

戦後の混乱期を経て、1942年に東京文理科大学助教授、1945年には東京帝国大学輻射線研究所助教授を務めました。研究体制の整備が進む中で、1949年には江上不二夫、柴谷篤弘ら当時の先駆的な生命科学者たちと研究会を発足させ、「核酸シンポジウム」を主催するなど、国内における新しい研究分野の礎を築く活動を展開しました。

分子生物学研究をさらに深めるため、フルブライト奨学金の支援を受け、1953年から1955年にかけてアメリカ合衆国カリフォルニア大学に留学しました。この留学期間中に、遺伝情報の伝達や発現のメカニズムを探る上で重要なモデル系となるバクテリオファージ（細菌に感染するウイルス）の研究に本格的に取り組み始めました。この経験は、帰国後の彼の研究活動に大きな影響を与えました。

帰国後、東京大学理工学研究所教授（1956年）、同大学理学部生物化学科教授（1958年）、京都大学ウイルス研究所教授（1959年）を経て、1963年からは慶應義塾大学医学部教授として分子生物学研究室を主宰しました。慶應義塾大学では、分子生物学という新しい学問分野の確立と発展に力を注ぎ、多くの研究者を育てました。後にノーベル生理学・医学賞を受賞する利根川進氏も、彼の薫陶を受けた一人です。

渡辺氏は、研究教育活動だけでなく、学術界の発展にも尽力しました。1978年には日本分子生物学会を設立し、その初代会長を務めるなど、国内の分子生物学研究者が交流し、研究を発展させるための基盤作りに貢献しました。また、日本学術会議副会長などの要職を歴任し、日本の科学政策や学術振興にも関与しました。

特筆すべきは、科学技術、特に生命科学の急速な進歩が、人間社会や倫理に与える影響について、早くから深い洞察を示し続けた点です。『ライフサイエンスと人間』、『人間の終焉－分子生物学者のことあげ』、『生命のらせん階段－分子生物学への道』など、多数の著書を通じて、科学万能主義に警鐘を鳴らし、生命の尊厳や科学者の社会的責任について積極的に発言しました。科学の進歩がもたらす負の側面にも目を向け、人間中心の視点から科学技術との向き合い方を提唱しました。

学術分野以外では、文化的活動にも理解を示し、大佛次郎賞の選考委員を務めるなど、幅広い分野に関わりました。1987年には長年の功績が認められ、勲二等旭日重光章を受章しました。

渡辺格氏は、分子生物学者として卓越した研究教育実績を残すと同時に、科学と社会、人間という普遍的なテーマについて問い続け、その思想を多くの人々に問いかけた、日本の科学史において重要な人物です。

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