漱石山房の冬

芥川龍之介の回想：師・漱石との交流と『漱石山房の冬』

『漱石山房の冬』は、芥川龍之介が1923年1月に『サンデー毎日』に発表した短編小説です。夏目漱石の死後、かつて漱石と交流のあった「漱石山房」を訪れた芥川の、感慨深い回想が描かれています。

この作品は、漱石の自宅を訪れた複数の出来事を軸に構成されています。芥川は、漱石の娘婿である松岡譲の案内で、漱石の書斎を訪れます。そこでは、往時の面影を偲びながら、漱石との出会いや言葉を改めてかみしめます。

若き日の芥川が、友人である久米正雄と共に初めて漱石を訪ねた時のエピソードが鮮やかに描かれています。寒々とした書斎で、漱石は「生涯に三度しか万歳を唱えたことがない」という意外な話を披露します。その寒さの中で、若き芥川は身震いしながらも、漱石の言葉に耳を傾けていました。

また、別の訪問の際に、漱石から芥川への貴重な助言が記されています。「文を売って口を糊するのも良い。しかし買う方は商売である。それをいちいち注文通り引き受けていてはたまるものではない。貧のためならば兎も角も、慎むべきものは濫作である」という、作家としての姿勢、そして生活の知恵を説く言葉は、若き芥川の心に深く刻まれたはずです。

漱石の死後、再び漱石山房を訪れた芥川は、家族から興味深い話を聞きます。寒さをこぼす書斎について、漱石は「京都あたりの茶人の家と比べてみ給え。天井は穴だらけになっているが、兎に角僕の書斎は雄大だからね」と豪語していたというのです。「穴は今でも明いたままです。」という記述は、漱石の人となり、そして芥川の記憶の鮮やかさを物語っています。

『漱石山房の冬』は、単なる回想録ではありません。芥川龍之介の鋭い観察眼と、繊細な描写によって、夏目漱石という人間像が立体的に浮かび上がってきます。漱石のユーモア、気品、そして厳しさ、それらすべてが、芥川の記憶を通して生き生きと蘇ります。

さらに、この作品は、芥川自身の文学観や人生観を反映しているとも解釈できます。若き日の憧れと、師の死を悼む複雑な感情が、静かに、しかし力強く表現されています。漱石の言葉は、芥川の文学への道を照らす灯台として、そして、未来への指針として、この作品の中に息づいています。

『漱石山房の秋』、『葬儀記』といった、漱石をテーマにした他の芥川龍之介の作品と合わせて読むことで、『漱石山房の冬』の魅力はさらに深まります。漱石と芥川、二人の巨匠の交流を通して、日本の近代文学史の一端を垣間見ることができるでしょう。

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