琴のそら音

夏目漱石の短編小説『琴のそら音』は、明治38年（1905年）5月に小山内薫が主宰する雑誌「七人」に掲載され、翌年には『漾虚集』に収録されました。漱石作品においては珍しい、超自然的な要素が比較的少ない作品として知られています。

物語は、主人公が婚約者の母親が選んだ迷信深い老婆の家に住むことから始まります。主人公は、心理学者の友人から不思議な話を聞きます。友人の友人が、戦地にいる夫から送られてきた鏡に、妻の姿が映っていたというのです。その日は、妻が亡くなった日と一致していました。この話を聞いた主人公は、婚約者も風邪をひいていることを知り、不吉な予感を抱きます。

帰宅途中に降り出した雨の中、葬列にも遭遇します。老婆からも、犬の遠吠えがいつもと違うと告げられ、主人公の不安は募ります。翌朝、婚約者の家を訪ねると、婚約者の風邪は既に治っていました。主人公は、うまく事情を説明できず、困惑します。

その後、床屋で狸に化かされる話などを耳にするなど、不穏な出来事が続きます。これらの出来事は、主人公の心理状態を反映していると考えられます。主人公の不安や迷いは、具体的な出来事を通してではなく、心理的な描写によって繊細に表現されています。

『琴のそら音』は、幽霊や超自然現象といった直接的な恐怖描写は少ないものの、主人公を取り巻く不気味な雰囲気や、彼の内面の葛藤が巧みに描かれ、読者に強い印象を与えます。物語全体を覆う不安感、そして、主人公が抱える説明できない不吉感、それらが独特の緊張感を生み出しています。

夏目漱石の他の作品に見られるような、直接的な超自然現象や怪奇現象は控えめですが、その分、心理的な描写が深く、読者は主人公の不安や動揺を強く感じ取ることができます。日常生活の中に潜む不気味さ、そして人間の心の奥底にある不安や恐怖といったテーマが、巧妙な語り口によって表現されています。

この作品は、漱石作品の中でも独特の雰囲気を持つ作品であり、彼の多様な表現力の一端を垣間見ることができるでしょう。短編小説という短い尺の中で、心理描写の深さと、読者に強い印象を与える独特の雰囲気を作り上げている点に、漱石の才能を感じます。青空文庫で全文を読むことが可能ですので、ぜひ原文にあたって、その独特な世界観を味わってみてください。

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