産業スパイ

概要

産業スパイとは、国家安全保障ではなく、純粋に商業的な利益を目的とした諜報活動全般を指します。これは「経済スパイ」や「企業スパイ」とも呼ばれますが、一般的に経済スパイが国家によって指示・組織され、国際的な範囲で行われるのに対し、産業スパイや企業スパイは国内企業間で発生することが多いという違いがあります。現代の激しい競争環境において、産業スパイは企業や国家の経済安全保障にとって看過できない脅威となっています。

活動の形態と標的

産業スパイの主な目的は、標的とする組織の重要な情報を不正に収集することです。これには、製品の製造方法や技術、レシピといった知的財産に関する情報、顧客リスト、価格設定、研究開発データ、入札に関する情報、企画やマーケティング戦略、生産体制の詳細など、企業の競争力を左右する機密情報が含まれます。また、情報を窃盗するだけでなく、賄賂や脅迫を用いたり、技術的な監視を行ったりすることも活動の一環です。対象は営利企業に限りません。政府との契約入札に関わる情報を得るために、政府機関が標的となるケースもあります。さらに近年では、単なる情報収集だけでなく、企業のシステムへの妨害行為なども産業スパイの一種と見なされるようになり、その定義は拡大しています。スパイ活動と破壊活動は密接に関連しており、これを同時に防止するための対策が取られることもあります。

産業スパイが特に多発するのは、コンピュータ関連（ソフトウェア、ハードウェア）、生物工学、航空宇宙、通信、輸送、自動車、工作機械、電気事業、材料工学など、先端技術に関わる産業です。シリコンバレーは特に活発な地域として知られていますが、競合他社にとって価値のある情報を持つあらゆる産業が潜在的な標的となり得ます。

情報収集の手法

情報の収集は、主に二つの動機で行われます。一つは、会社に不満を持つ従業員が金銭目的や会社への損害を目的に情報を持ち出すケース。もう一つは、競合他社や外国政府が、技術的または財政的な利益を得るために情報を収集するケースです。

産業スパイにおいて、内部協力者、すなわち「モグラ」と呼ばれる信頼できる組織内の人物は、最も重要な情報源とされています。こうした内部協力者は、自発的に、あるいは脅迫などによって情報提供に追い込まれることがあります。「カモ（patsy）」と呼ばれることもあり、最初は些細な情報漏洩を要求され、一度関与すると、より機密性の高い情報の提供を強要されるという手口が用いられることもあります。従業員が別の会社に転職する際に、前の会社の機密情報を持ち出すといった明確なスパイ行為も多発しており、しばしば訴訟に発展しています。

国家が直接諜報機関を使わず、個人を雇ってスパイ活動を行わせることもあります。研究者、企業の代表者、学生などが情報収集のために利用されるケースがしばしば指摘されています。工場見学後に「迷子になった」人物や、技術者、清掃員、検査官など、合法的に敷地内に立ち入り可能なあらゆる人物がスパイとなる可能性を秘めています。物理的な侵入や、廃棄された書類などを漁る「ダンプスター・ダイビング」も古典的な手法です。また、合法的な情報提供ルート（一方的な情報要求、市場調査、技術サポートの利用、研究の利用など）を悪用したり、外部の協力工場から契約外の情報を要求したりする手口も存在します。

近年のコンピュータとインターネットの発展は、産業スパイの手法を大きく変化させました。デバイスへの物理的な接触やネットワーク経由で、大量の情報へのアクセスが以前より容易になっています。

歴史的経緯

産業スパイの起源は古く、1712年にフランスの神父が中国の陶磁器製造技術をヨーロッパに伝えた事例などが初期の例とされます。18世紀には、産業大国として台頭したイギリスから、フランスが大規模な国家支援のもと技術や熟練職人を獲得しようとしました。これに対抗するため、イギリスでは産業スパイを防ぐ初の法律が制定されました。しかし、サミュエル・スレーターが1789年にイギリスの繊維技術をアメリカにもたらすなど、技術流出は続きました。18世紀から19世紀にかけてのアメリカ政府は、ヨーロッパに追いつくため、積極的に知的財産の獲得を奨励した歴史があります。

20世紀に入ると、東西冷戦を背景に、ソビエト連邦がアムトルグ貿易会社などを通じて西側諸国の製造技術に関心を示しました。西側が軍事転用可能な品目の輸出を制限すると、ソ連は他のスパイ活動に付随する形で産業スパイを強化しました。1980年代には、ソ連のコンピュータ技術が西側のコピーであると報じられるなど、その実態が明らかになりました。東ドイツのシュタージによる「ブリュンヒルデ作戦」では、多数のスパイが動員され、西ヨーロッパの工業機密が大量に漏洩し、東西ドイツ間の生産性格差縮小に影響を与えたとされます。ソ連の「spetsinformatsiya」システムのように、軍事産業を中心に技術情報を計画的に収集・活用する体制も存在しました。

冷戦終結後は、軍事目的で活動していた諜報員やスパイ装置（盗聴器、衛星など）が産業目的へと転用され、産業スパイ活動が拡大したという指摘がなされました。

現代のテクノロジーと国家の関与

現代の産業スパイにおいて、コンピュータとインターネットは不可欠なツールです。大量の情報がデジタル化され、コピーや送信が容易になったため、情報窃盗の危険性が増大しました。ノートパソコンなどは常に主要な標的とされています。

インターネットとネットワークの進展により、サイバースパイが台頭しました。これは個人の犯罪というより、高度な技術と組織力、そして膨大なターゲット情報へのアクセス能力から、国家による支援や後援があると考えられています。マルウェアやスパイウェアは、トレードシークレットなどのデジタル情報を盗み出す「産業スパイの道具」として利用されています。携帯電話を乗っ取る新型マルウェアも出現しています。これに対抗するため、企業は重要な情報をネットワークから隔離する「エアギャップ」や、電磁波を遮断する「ファラデーケージ」などの対策を講じています。

また、インターネットは破壊活動を目的とした産業スパイも増加させています。電力網や水道システムといった重要インフラは、インターネットに接続されているものの、セキュリティ対策が不十分な場合があり、テロリスト集団や敵対的な外国政府によるDDoS攻撃などの標的となる懸念が高まっています。これは政府にとって大きな懸念材料です。

国家の関与については議論があり、アメリカ政府は公式には企業の利益のために産業スパイを行うことを否定しています。しかし、経済制裁の効果確認や、軍民両用技術の監視、海外での贈収賄摘発といった目的で外国の経済情報を収集していることは認めています。ブラジルやドイツなど、一部の国からはアメリカによる産業スパイが告発されており、また、米諜報機関の元局員からはイスラエルによるアメリカ国内でのスパイ活動が突出しているとの証言も出ています。一方で、中国によるサイバー攻撃がGoogleや他の企業を標的とした産業スパイの一環ではないかという指摘もあります。

主な事例

歴史上・現代において、産業スパイは多くの事件を引き起こしています。例えば、19世紀にイギリス東インド会社が中国から茶の栽培技術や製法を密かに持ち出し、インドでの茶生産を成功させた事例。1982年に日本の複数のコンピューターメーカーがアメリカのIBMから機密情報を不正入手しようとしたIBM産業スパイ事件。1990年代にドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲンがライバルのオペルから幹部社員を引き抜き、産業スパイとして告発され、巨額の和解金で決着した事件。2009年にホテル大手スターウッドがライバルのヒルトンを提訴した事例（幹部社員の情報持ち出し）。2010年にGoogleが中国からのサイバー攻撃「オーロラ作戦」で知的財産が窃盗されたと発表した事例（国家関与が示唆された）。日本国内でも、1964年の大日本印刷事件（機密書類の不正入手と恐喝）や、2022年のかっぱ寿司事件（競合他社の営業秘密不正取得）などが摘発されています。これらの事例は、産業スパイが単なる情報窃盗に留まらず、企業間の競争、さらには国家間の経済的な駆け引きにも深く関わっていることを示しています。

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