甲州犬目峠

葛飾北斎『冨嶽三十六景』「甲州犬目峠」：実景か想像か、謎めく風景

葛飾北斎の代表作として名高い『冨嶽三十六景』。その46図の中に、「甲州犬目峠」という作品があります。落款には「北斎改為一筆」と記されており、北斎の晩年の力作として知られています。本作品は、甲州街道沿いの犬目宿（現在の山梨県上野原市付近）近辺の峠を描写したものですが、具体的な場所は特定されていません。

吉田兼信の『甲駿道中之記』（文政13年）には、「矢坪、犬目の駅過、犬目峠有、けわしき岩山なり、嶺上より富士嶺を望、絶景の地なり」とあり、犬目宿と西の下鳥沢宿の間の峠であった可能性が示唆されています。北斎の絵には、雄大な富士山が背景に描かれ、その高さによって白、藍、茶色と繊細な摺り分けが施されています。手前に配置されたのは、緑に覆われた急勾配の坂道。峠を越えようとする旅人や馬の姿が力強く描かれています。

地元犬目では、遠見と呼ばれる高台から見える富士を北斎が描いたという伝承が残っています。しかしながら、北斎が実際に甲州を訪れたことを裏付ける明確な記録は見つかっていません。この点が、「甲州犬目峠」の解釈を複雑にしている要因の一つです。絵の中の峠は、実際の地形と比較して、山深くなく、やや不自然な描写であるという指摘もあります。

対照的に、歌川広重の『不二三十六景』に描かれた「甲斐犬目峠」は、険しい山々に囲まれた奥深い場所に富士山が位置しています。この違いから、北斎が独自の想像力を駆使して、理想的な風景を描いた可能性も考えられます。北斎は、現実の風景を忠実に再現するだけでなく、自身の感性と表現技法によって、独自の解釈を加えた作品を数多く残しています。「甲州犬目峠」も、そうした北斎の創作力の結晶と言えるでしょう。

北斎の描いた富士山は、単なる自然の風景を超えた存在感を放っています。それは、日本の象徴であり、人々の精神的な支えとなっている富士山を、北斎自身の視点を通して表現したと言えるでしょう。また、旅人や馬といった人間の営みと自然の壮大さを対比させることで、人間の存在と自然との関わり、そして旅の困難さと喜びを同時に表現しているようにも見えます。

「甲州犬目峠」は、その具体的な場所が特定できないこと、そして北斎が想像力を加えて描いた可能性があることなど、多くの謎を秘めた作品です。しかし、その謎めいた点こそが、鑑賞者に無限の想像力を掻き立て、作品の魅力を高めていると言えるのではないでしょうか。様々な解釈が可能な点も、この作品の魅力の一つであり、これからも多くの研究者や愛好家によって、その真の姿が解き明かされていくことでしょう。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年

もう一度検索