盲長屋梅加賀鳶

歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶』

河竹黙阿弥が筆を執った歌舞伎の演目、『盲長屋梅加賀鳶』は、通称「加賀鳶」として広く知られています。明治19年（1886年）3月に東京千歳座で初演された本作は、明治期に生まれた世話物狂言の中でも特に優れた作品として評価されています。

作品の成り立ちと特徴

本作は、当代きっての役者であった五代目尾上菊五郎のために創作されました。尊敬する四代目市川小團次が初演した『勧善懲悪覗機関』（通称：村井長庵）を上演したいという菊五郎の希望があったものの、その重厚で陰鬱な作風が菊五郎の持ち味（ニン）に合わないと懸念した関係者の意向を受け、黙阿弥が『村井長庵』の細かな筋立てを参考にしながら、全く新しい作品として書き下ろしたものです。

『村井長庵』の持つ重苦しく陰惨な雰囲気とは対照的に、『盲長屋梅加賀鳶』はより簡潔で明快な筋立てを持ち、全体的に明るく、粋な趣と豊かな娯楽性に満ちています。これは、小團次と菊五郎という二人の名優の芸風の違いを深く理解していた黙阿弥ならではの筆致であり、その手腕が光る一編と言えるでしょう。

当初は、加賀藩お抱えの火消人足「加賀鳶」の頭である梅吉を巡る妻おすがとの間男騒動と、悪事を重ねる盲人の按摩・竹垣道玄の行状が複雑に絡み合う構成でした。しかし、道玄役を得意とした六代目尾上菊五郎によってその演出が練り上げられ、特に道玄が登場する場面が人気を博した結果、今日ではもっぱら道玄を中心とした展開の場面が上演されることが多くなっています。加賀鳶に関する部分は、「本郷通町勢揃い」の場が序幕として上演されるにとどまっています。

主な見どころとなる場面

本作は全六幕から構成されていますが、現代の歌舞伎公演で頻繁に上演されるのは以下の場面です。

本郷通町勢揃い（現行序幕）
江戸の町を騒がせる、町火消と加賀鳶の威勢の良い喧嘩騒ぎが描かれます。加賀鳶の面々が一人ずつ名乗りを上げる様は、黙阿弥の美文調による名口上であり、その技巧が光ります。特に、頭の松蔵に率いられた鳶たちが勇壮な名乗りを上げる場面は、『青砥稿花紅彩画』（白浪五人男）の稲瀬川の場と並ぶ、歌舞伎の様式美にあふれた見どころです。この場は原作では二幕目でしたが、現在は序幕として上演されるのが一般的です。
御茶の水土手際の場（現行序幕）
悪党・竹垣道玄が初めて登場する場面です。持病に苦しむ百姓・太次右衛門を助けるふりをして殺害し、金品を奪い去ります。折しも通りかかった加賀鳶の頭・松蔵に見咎められますが、道玄は平然と按摩の笛を吹きながら立ち去るという、彼の不敵な性格を示す重要な場です。
菊坂盲目長屋 / 竹町質見世（現行三幕目）
道玄の生活と悪行が克明に描かれます。殺害した太次右衛門の妹おせつを妻とし、娘おあさを豪商伊勢屋に奉公に出しながらも、酒と賭博に溺れ、女按摩お兼を愛人としています。長屋での道玄とお兼の悪巧み、そして竹町の質店で、おあさの偽の手紙を使って伊勢屋の主人を強請ろうとする様が描かれます。しかし、駆けつけた松蔵に、道玄が落とした煙草入れを証拠として御茶ノ水での殺人を暗示され、すごすごと引き下がらざるを得なくなります。この場での「もとより話の根無し草…」に始まる道玄の「厄払い」は、黙阿弥が得意とした五七調の名台詞であり、大きな聴きどころとなっています。
菊坂道玄借家 / 加州侯表門（現行六幕目）
道玄が破滅へと向かう場面です。長屋で赤犬が血のついた衣類を掘り出したことから、道玄が御茶ノ水での殺人の証拠隠滅を図っていたことが露見します。道玄はお兼とともに逃亡を図りますが、捕り手に踏み込まれ、お兼は捕縛されます。道玄は辛くも逃げ延びますが、加賀藩上屋敷の表門まで逃げたところでついに捕まります。特に「加州侯表門」での捕物劇は、世話だんまり形式で演じられ、追い詰められた道玄の滑稽な逃げ方が観客の笑いを誘う一方で、緊迫感も併せ持つという世話だんまりの傑作の一つに数えられています。

作品にまつわる逸話

五代目尾上菊五郎は本作に並々ならぬ情熱を注ぎました。関係者から意見を聞き、実際に現地調査を行って加賀鳶の扮装を忠実に再現したり、古道具屋で使い込まれた羊羹色の羽織を見つけて道玄の衣装とするなど、役作りに徹底的にこだわったといいます。また、五幕目に登場する死神は、歴代菊五郎のお家芸である怪談物を意識したもので、幼少期に見た祖父である三代目菊五郎の死神を再現しようと、河鍋暁斎や大蘇芳年といった画家たちの助言を得て創り上げたと言われています。そのあまりの凄さに、客席にいた落語家の三遊亭円朝が思わず絶叫したという逸話も残っています。

道玄役を得意とした六代目菊五郎は、本作で最も重要な場面を質屋での強請りの場であると考え、「道玄はここ（質屋）さえできたらよい」と語っていたそうです。彼の道玄と、芸を競い合う好敵手であった初代中村吉右衛門が演じる松蔵とのやり取りは、「しかも正月十五日 月はあれども雨雲に 空も朧の御茶ノ水」といった名調子の台詞も相まって、まるで火花を散らすような凄みがあったと伝えられています。

昭和24年（1949年）1月、東横劇場で道玄を勤めていた六代目菊五郎は眼底出血で倒れ、そのまま回復することなく死去しました。図らずもこの舞台が彼の生涯最後の舞台となったのです。この時、代役を務めた二代目尾上松緑に、病床から「うまくなくってもいいから、行儀よくやりな」と道玄という役を演じる上での心構えを説いたという話は、芸の伝承を示す感動的なエピソードとして語り継がれています。悪党でありながらもどこか間の抜けた愛嬌があり、同時に品格と現実味を兼ね備えた演技が求められる道玄役は、この二代目松緑をはじめ、十七代目中村勘三郎、五代目中村富十郎といった後代の名優たちによって継承されていきました。

お兼もまた、物語に深みを与える重要な役柄です。腕達者な脇役が演じることで、作品全体の質が高まります。初演時は四代目尾上松助の評判が高く、昭和に入ってからは三代目尾上多賀之丞が絶妙な演技を見せました。彼は80歳近い高齢になっても、役に必要な色気と江戸前の粋さを失うことがなかったといいます。

「勢揃い」の場は、木遣歌や神田祭礼の唄が流れる中、粋で威勢の良い鳶の者たちが一人ずつ名乗りを上げる顔見世のような形式で演じられる、非常に華やかな一幕です。現行の演出では、名乗りを上げる鳶の者の数は原作の倍以上に増えています。これは、黙阿弥の筆によるのは松蔵、巳之助、尾之吉、五郎次、兼五郎、石松の5人の台詞のみであり、その他は後世になって加筆されたためです。

「加賀鳶」とは、その名の通り、加賀藩が江戸藩邸に抱えていた火消集団のことです。火事が頻発した江戸には、幕府直属の「町火消」と、各大名が自らの屋敷などを守るために抱えた「大名火消」がいました。加賀鳶はその中でも特に、派手な装束と独特の髪型で江戸っ子に人気が高く、加賀百万石という藩の格式への誇りも相まって、町火消と大名屋敷が隣接する地域では火事のたびに両者の間で威勢の良い衝突が絶えませんでした。本作の序幕では、まさにこの火花散る対立の様子が描かれています。

「加州侯表門」の捕物劇は、『東海道四谷怪談』の隠亡堀や『神明恵和合取組』（め組の喧嘩）の八ツ山下の場と並び称される、世話だんまりの傑作に数えられます。追い詰められた道玄が、闇の中で捕り手の声を真似たり、相手の急所を突いたりといった、緊迫感あふれる状況の中に滑稽さを織り交ぜる演出が人気の理由です。六代目菊五郎は、この場面で捕り手役の弟子たちに「俺（道玄）は動かない、動くのはお前たちの方だ」と指導していたといいます。

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