眠りの神

ラヴクラフトの深淵：短編小説『眠りの神』の謎めいた世界

H・P・ラヴクラフトの代表作の一つに数えられる短編小説『眠りの神』（原題：Hypnos）は、1922年3月に執筆され、複数の雑誌に掲載された後、複数の翻訳版で読者に親しまれてきました。青心社文庫版ではわずか12ページというコンパクトな作品ながら、その内容は濃密で、読後には多くの謎と衝撃を残します。

物語は、イギリスを舞台に、彫刻家である語り手が駅で倒れていた男と出会う場面から始まります。語り手は、その男に神秘的な力を感じ、自宅に招き入れ、共に生活するようになります。二人は夢や世界の真理について語り合い、薬物を用いて夢の世界を探求します。やがて、男は夢の奥深くへと踏み込むことに成功しますが、語り手はそれに失敗します。しかし、夢の彼方を知ってしまった男は衰弱し、語り手に二度と夢の世界に入らないよう警告します。

二人はロンドンに移住しますが、薬物や酒に溺れ、眠りを恐れるようになります。生活は困窮し、語り手は自分の作品である彫像をすべて売却します。そして、ある日、男は眠ったまま目覚めることはありませんでした。その直後、北東の北冠座から赤みがかった金色の光が差し込み、男の顔を照らします。男は恐怖と絶望に満ちた表情で息絶え、語り手は悲鳴を上げます。

駆けつけた家主や警察官、医師らは、薬物中毒の語り手が妄想に囚われていると判断します。男は存在せず、語り手が彫像を友人と思い込んでいるのだと。しかし、男の遺体と思しき彫像の台座には「ヒュプノス」という名が刻まれており、物語は、語り手の友人の実在、そして彼らに降りかかった出来事の真相を曖昧なまま幕を閉じます。

この物語は、現実と幻想、正気と狂気の境界が曖昧に描かれている点が特徴です。薬物による幻覚なのか、超自然的な力によるものなのか、その真実は最後まで明かされません。語り手の視点を通して語られる物語は、読者に強い心理的な圧迫感を与え、夢と現実、そして人間の心の闇を深くえぐる内容となっています。

ラヴクラフト作品の中でも『眠りの神』は、クトゥルフ神話的要素と心理スリラー的な要素が複雑に絡み合っています。特に、夢の世界への探求と、それに伴う恐怖や絶望といったテーマは、ラヴクラフト作品全体を貫く重要な要素となっています。また、大瀧啓裕氏による解説では、同年発表された『魔犬』との関連性が指摘されており、『魔犬』が『眠りの神』を本歌取りしたものだと解釈されています。

『眠りの神』は、ラヴクラフトの他の作品と同様に、ギリシャ神話やその他の文献からの引用も多く含まれています。これにより、物語に深みと奥行きが加えられ、読者は様々な解釈を想起することが出来ます。例えば、物語に登場するヒュプノスは、ギリシャ神話の眠りの神であり、ラヴクラフト作品における夢や超自然的な力との関連性を探る上で重要な要素となります。

クトゥルフ神話TRPGにおいては、『眠りの神』に登場するヒュプノスは旧神として扱われる場合があり、その設定は複数の資料によって異なっています。これは、ラヴクラフト作品におけるクトゥルフ神話の解釈の多様性を示すものであり、『眠りの神』が、クトゥルフ神話という広大な世界観の一端を垣間見せる作品であることを示唆しています。

『眠りの神』は、短いながらも深い謎と衝撃を残す、ラヴクラフト文学の代表的な作品です。読者は、語り手の狂気と、その背後に潜む恐るべき真実を、自ら解き明かす旅に出ることになるでしょう。その読後感は、長く記憶に残る、忘れがたい体験となるはずです。

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