眠り猫

栃木県日光市にある世界遺産、日光東照宮。その豪華絢爛な建造物の回廊を進むと、多くの参拝者の目を引く小さな木彫りの彫刻に出会います。それが「眠り猫」です。この建築装飾彫刻は、江戸時代初期の伝説的な職人、左甚五郎の作と伝えられており、日光東照宮を代表する見どころの一つとして広く知られています。

日光東照宮の境内には、様々な動物をモチーフにした精巧な木彫り彫刻が数多く見られます。「眠り猫」も、それらの豊かな彫刻群の一つとして、建物を彩っています。しかし、この彫刻が特別視される理由は、単なる装飾にとどまらない、その象徴性にあります。

「眠り猫」の特徴は、その名の通り、猫が心地よさそうに眠っている姿が表現されていることです。穏やかな表情でまどろむ猫の姿は、見る者に安らぎを与えます。さらに興味深いのは、この彫刻の裏側に別の彫刻が存在することです。そこには、竹林の中で無邪気に遊ぶ雀たちの姿が彫られています。

日本の神社の彫刻において、猫はしばしば獲物を狙う鋭い目つきで描かれることが多いです。例えば、宮城県にある大崎八幡宮の「睨み猫」のように、獲物である蝶をじっと見つめる構図は、富貴や長寿といった吉祥の意味合いを持つと解釈されています。このように、本来猫は警戒心が高く、獲物を捉えるために常に周囲に注意を払っている動物です。

それに対し、日光東照宮の「眠り猫」は、なぜ無防備ともいえる眠った姿で彫られているのでしょうか。そして、なぜ猫のすぐ近くに、通常なら捕食対象となるはずの雀たちが安心して遊んでいる様子が描かれているのでしょうか。この一見矛盾した組み合わせこそが、「眠り猫」の彫刻に込められた深い意味を読み解く鍵となります。

最も有力な解釈として語り継がれているのは、この彫刻が「平和な世界の到来」を象徴しているという説です。つまり、「猫が眠っている」ということは、猫が獲物を追う必要がないほど世の中が太平になったことを示しており、そのため雀のようなか弱い生き物も安心して暮らせる。これは、徳川家康公が長く続いた戦乱の時代を終わらせ、平和な世をもたらしたことのメタファーであると考えられています。かつての弱肉強食の時代が終わり、全てのものが共存し平和を享受できる、徳川の治世が実現したことを示唆している、という解釈です。

この貴重な彫刻は、長い歴史の中で風雨にさらされ、保存のための修復が度々行われてきました。特に、2016年には約60年ぶりとなる大規模な修復作業が完了し、創建当時の彩色が復元された姿で再び回廊に設置されています。色鮮やかによみがえった「眠り猫」は、その小さな体の中に込められた平和への願いを、今も静かに語りかけているかのようです。

「眠り猫」は、単なる美しい彫刻作品としてだけでなく、その象徴性を通じて、平和の尊さや、異なる存在が共存することの意義を私たちに伝えています。左甚五郎伝説とともに語り継がれるこの小さな傑作は、日光東照宮を訪れる人々に、深い感動と示唆を与え続けているのです。

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