聖アンナと聖母子

聖アンナと聖母子：レオナルド・ダ・ヴィンチの深遠なる傑作

レオナルド・ダ・ヴィンチが1508年頃に描いた油彩画『聖アンナと聖母子』（伊: Sant'Anna, la Vergine e il Bambino con l'agnellino、仏: La Vierge, l’Enfant Jésus et sainte Anne）は、聖母マリア、幼子イエス・キリスト、そしてマリアの母である聖アンナの三者を独特な構図で描いた作品です。現在、この絵画はパリのルーヴル美術館に所蔵されており、ルネサンス美術の中でも特に重要な作品の一つとして、多くの人々を魅了し続けています。

作品の構成と特徴

この絵画では、幼子イエスが将来の受難を象徴する子羊をしっかりと掴み、それを優しく制止しようとするマリア、そしてその様子を見守るアンナが描かれています。一見すると穏やかな雰囲気を醸し出していますが、詳細に分析すると、その構図の複雑さや象徴的な要素が浮かび上がってきます。マリアはアンナの膝の上に座るという、他に類を見ない特異な配置で描かれており、その意図は現在でも解明されていません。さらに、アンナがマリアよりも大きく描かれている点も、二人の親子関係を強調していると解釈できます。

制作の経緯と下絵

レオナルドは、この作品を描くにあたり、以前に『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』という習作とも言える作品を制作しています。当初、この絵画はフィレンツェの教会の祭壇画として依頼されたものでしたが、レオナルドは生涯にわたって加筆を続けたため、未完の作品とされています。2008年には、ルーヴル美術館のキュレーターが、この絵画の絵具層の下に、レオナルドによるものと思われるスケッチを発見しました。赤外線リフレクトグラムによる調査の結果、馬の頭部や頭蓋骨、子羊などのスケッチが見つかり、これらはレオナルドが過去に手がけた壁画『アンギアーリの戦い』に描かれたものと酷似していることが判明しました。これらの下絵は、レオナルドの作品の下絵としては世界で初めて発見されたものであり、専門家による更なる調査が予定されています。

フロイト学派による解釈

精神分析学者ジークムント・フロイトは、自身の著書『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある想い出』の中で、この絵画に関する独自の解釈を提唱しました。フロイトは、マリアの衣服に隠されたハゲワシの姿に注目し、これがレオナルドの幼少期の体験に基づいたものであると主張しました。しかし、このハゲワシは、実際にはトビの誤訳であり、フロイトは後に自身の解釈を修正しました。また、フロイトはレオナルドがアンナとマリアの親子をともに描くことを好んだ理由について、レオナルド自身が実母と義母という「二人の母」を持っていた経験に根ざしていると仮説を立てました。この仮説は、親子であるアンナとマリアが同年代のように描かれ、識別が難しいという点においても注目されています。

アンナの赤い石と象徴性

この絵画において、アンナの足元に描かれている赤い石も注目すべき要素です。この石は、瑪瑙や柘榴、あるいは胎盤であるとする説が存在し、特に胎盤説は、レオナルドが生命の根源を非宗教的な視点から捉えていた可能性を示唆しています。また、アンナが大地と生命をつなぐ地母神として描かれているという解釈もあり、その表情は「すべてを知るものの笑い」と評されています。

修復論争

2011年には、ルーヴル美術館が行った修復作業が論争を巻き起こしました。修復作業の監督者や専門家が、過度な洗浄によって絵画の色調が明るくなりすぎていると指摘し、修復の中断を求めました。この修復論争は、『聖アンナと聖母子』が持つ美術史的価値と、修復の難しさを浮き彫りにする出来事となりました。

まとめ

『聖アンナと聖母子』は、レオナルド・ダ・ヴィンチがその卓越した技量と深い思想を注ぎ込んだ傑作であり、その複雑な構図や象徴的な要素は、見る者を飽きさせません。フロイトによる精神分析的な解釈や、修復に関する論争も含め、この作品は多角的な視点から考察されるべき多くの側面を持っています。この絵画は、ルネサンス美術の傑作であると同時に、レオナルドという天才の創造性と人間性を深く理解するための重要な手がかりとなるでしょう。

もう一度検索