菅井汲

菅井汲：スピードと幾何学の画家

菅井汲（1919年 - 1996年）は、20世紀を代表する日本人の洋画家、版画家です。神戸市に生まれた彼は、大阪美術工芸学校で学びましたが、病気のため中退。その後、商業デザイナーとして活動を始めました。中村貞以や吉原治良といった巨匠に師事し、独自の画風を確立していきます。

1952年、菅井はパリへ渡ります。東洋的なエキゾティシズムと、アンフォルメル様式の絵画表現を融合させた初期の作品は、パリの美術界で高く評価されました。象形文字のような形態から、次第に幾何学的な表現へと移行していきます。

特に有名になったのは、1962年頃から制作された「オートルート」シリーズです。鮮やかな色彩で描かれた幾何学的な形態は、まるで高速道路を駆け抜けるようなダイナミックさを表現しています。このシリーズのモチーフは、菅井の愛車ポルシェで高速走行中に浮かんだビジョンから生まれたと言われています。彼は無類のスピード狂として知られ、その危険な運転は、幾度となく事故を引き起こす原因にもなりました。パリ郊外での交通事故では頸部骨折の大怪我を負うも、持ち前の生命力で難を逃れています。

また、菅井は早食いで有名で、唐揚げ弁当を好んで食べていたという逸話も残っています。彼の「無駄を省く」という姿勢は、作品制作だけでなく、日常生活にも及んでいました。朝食、昼食、夕食のメニューはそれぞれ決まっており、同じメニューを20年間も食べ続けたと言われています。

1970年代以降の作品は、円と直線の組み合わせによる、より単純化されたものになります。モチーフは機械的に配置され、正確に描かれています。これは、高速走行中にもドライバーが瞬時に認識できる道路標識のような、機能美を追求したスタイルです。

晩年期には「S」字のシリーズを制作しました。「S」は菅井のイニシャルであると同時に、高速道路のカーブを意味するものでもあります。「なぜ同じ絵を描き続けてはいけないのか」と問いかけ、同じパターンを描き続ける行為自体に個性を見出していました。

菅井は、リトグラフやシルクスクリーンなど、版画作品も多く残しています。彼の作品は、数々の国際的な展覧会で高く評価され、多くの賞を受賞しました。サンパウロ・ビエンナーレ展での最優秀外国作家賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ展でのデヴィット・ブライト基金賞など、その受賞歴は輝かしいものです。また、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を受章するなど、フランスでの評価も非常に高いものでした。

代表作としては、『侍』『朝のオートルート』『ハイウェイの朝』『まるい森』『フェスティヴァル・ド・バル』『12気筒（全体）』『空間「力学」』などがあります。これらの作品は、現在も多くの美術館で所蔵され、人々に感動を与え続けています。菅井汲の生涯と作品は、スピードと幾何学、そして徹底した「無駄を省く」という彼の哲学を反映した、独特の芸術世界を私たちに示しています。彼の作品は、現代美術史において重要な位置を占めています。

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