蔦谷喜一

昭和を代表する塗り絵作家、蔦谷喜一（つたやきいち）は、1914年 2月18日に東京都京橋の紙問屋「蔦谷音次郎商店」に生を受けました。九人兄弟の七番目、五男として育った彼は、後に画家、そして「きいちのぬりえ」で一世を風靡する塗り絵作家としてその名を知られることになります。

画家への道のりと転機

幼い頃から絵に興味を持った喜一は、1931年に東京市立京橋商業学校を中退し、画家の道を志して川端画学校で専門的な学びを深めます。しかし、画家としての芽はなかなか出ず、苦闘の日々が続きました。見かねた兄の計らいにより、25歳となった1939年には菓子店の経営に乗り出しますが、商才に恵まれなかった彼はわずか一年足らずで店を閉めることになります。

塗り絵 作家「フジヲ」「きいち」の誕生

画家としても商売人としても壁にぶつかった喜一でしたが、1940年に友人から塗り絵の仕事を持ちかけられたことが、彼の人生の大きな転機となりました。夏目漱石の小説に登場する女性の名前からとった「フジヲ」という名義で塗り絵制作を開始します。当時の主流であった物の形をなぞるだけの塗り絵とは一線を画し、美人画に連なるような繊細で美しい少女像を描いた彼の塗り絵は、当時の女児たちの間で瞬く間に人気を集めました。しかし、その輝きも長くは続きません。1941年の太平洋戦争開戦に伴う物資統制により、塗り絵は市場から姿を消し、喜一自身も1943年から軍需工場へ動員され、塗り絵の筆を一時置かざるを得なくなりました。

戦後の復興と第一次ブーム

終戦後の1947年、喜一は「キイチ/KIICHI」という名義で再び塗り絵の制作と販売を始めます。その後、石川松声堂や山海堂といった企業との共同経営を経て、1948年からは「きいち」の名で塗り絵を描くことに専念。これが功を奏し、「きいちのぬりえ」は爆発的な人気を獲得しました。この人気は1960年代前半のアニメブームが到来するまで続きましたが、テレビ放送の開始と共に子どもたちの興味は駄菓子屋で売られる袋入りの「きいちのぬりえ」から、書店で手に入る雑誌付録のアニメキャラクター塗り絵へと移っていきます。これにより、喜一の収入は次第に減少していきました。

低迷期と再評価、そして第二次ブーム

1965年、「第1次きいちブーム」が終焉を迎えると、塗り絵の仕事はほとんどなくなり、収入が途絶えた喜一は持ち家を手放さざるを得ない状況に陥ります。生活のために、リースや即売向けの日本画（主に美人画）や肖像画を描き始めるなど、新たな道を模索しました。

暗中模索の日々の中、1972年に「きいち」作品のファンであったデザイナーの長谷川義太郎と運命的な出会いを果たします。この出会いが、後の再評価につながる重要なきっかけとなりました。長谷川が経営する「文化屋雑貨店」で原宿の雑貨用イラストを担当するなど、細々と創作活動を続けます。

1978年、長谷川の働きかけにより、資生堂ザ・ギンザのギャラリーで「きいちのぬりえ展」が開催されます。この展覧会を機に、「きいちのぬりえ」はかつて少女だった世代を中心に再び注目を集め、「第2次きいちブーム」の火が点きました。同年には、きいちの塗り絵を初めてまとめた書籍『きいちのぬりえ：メリーちゃん花子さん』が刊行され、以降「きいちのぬりえ」シリーズは続刊を重ね、世代を超えて愛されるベストセラーとなりました。彼の没後もその人気は衰えることなく、特に女性からの支持を集め続けています。

晩年の創作活動と国際的な評価

再評価を受けた喜一は、1985年頃から日本の伝統行事や風習にまつわる童女を描く「童女百態シリーズ」に精力的に取り組み始めます。1993年にはテレビ朝日のキャンペーンポスターに起用され、駅や電車内、新聞などで大々的に展開。この作品は同年、朝日広告賞・多色部門賞を受賞するなど高い評価を得ました。また、2002年にはフランス・パリのカルティエ現代美術財団で開催された村上隆キュレーションの「Coloriage（ぬりえ）展」にも出品するなど、その作品は国際的な舞台でも紹介されました。

晩年と美術館

2005年 2月24日、蔦谷喜一は老衰のため、埼玉県春日部市の病院で静かに息を引き取りました。享年91。

彼の功績を称え、「きいちのぬりえ」を中心としたコレクションを展示する「ぬりえ美術館」が、彼の姪であり塗り絵研究者である金子マサ氏によって、2002年に東京都荒川区町屋に開館しました。多くのファンに親しまれましたが、金子氏の体力的な理由により、開館20周年を迎えた2022年10月30日に惜しまれながら閉館となりました。

蔦谷喜一の描くノスタルジックで可愛らしい少女像は、昭和の時代を生きた人々の心に深く刻まれ、現代においても色褪せることなく、多くの人々に愛され続けています。「きいちのぬりえ」は単なる子どもの遊び道具としてだけでなく、一つの時代の文化や、当時の少女たちの夢や憧れを映し出す貴重な芸術作品として、その価値が再認識されています。

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