西太平洋の遠洋航海者

『西太平洋の遠洋航海者』は、ポーランド生まれで後にイギリスで活躍した人類学者、ブロニスワフ・マリノフスキ（Bronisław Malinowski）が1922年に発表した、文化人類学分野の記念碑的な著作です。原題は『Argonauts of the Western Pacific: An account of native enterprise and adventure in the Archipelagoes of Melanesian New Guinea』といい、ギリシア神話における英雄たちの船団「アルゴナウタイ」に由来する「Argonauts」という言葉が冠されています。このタイトルは、ニューギニアのメラネシア地域における島々の住民たちの冒険的な遠洋航海と、そこで展開される事業（交易）を象徴しています。

概要

本書の中心的なテーマは、ニューギニア東部のトロブリアンド諸島を含むメラネシアのサークル状の島々で行われている、クラ（Kula）と呼ばれる複雑な交換システムです。マリノフスキは、このクラを単なる物々交換ではなく、理論的に重要な経済現象として位置づけ、現地社会が豊富な贈与と互酬の関係によって組織されている様子を詳細に描き出しました。

マリノフスキは、1915年から1916年にかけてと、再び1917年から1918年にかけて、オーストラリアを拠点としながらトロブリアンド諸島で長期にわたる現地調査を実施しました。調査者が研究対象の地域に長く滞在し、住民の日常生活を観察し、さらに現地語で資料を収集・分析するという参与観察の手法は、当時としては極めて画期的なものでした。この斬新なアプローチによって、マリノフスキは外部からは理解しがたいように見える社会慣習の内部論理を深く掘り下げることが可能となりました。

本書の執筆にあたり、マリノフスキは同時代のイギリス人類学の先駆者であるチャールズ・セリグマン、ウィリアム・リヴァーズ、アルフレッド・ハッドンらの研究成果や方法論を取り入れています。また、当時のイギリス文化人類学には、フランスの社会学者エミール・デュルケームが集団的表象に関する理論を通じて大きな影響を与えており、マリノフスキを含む研究者たちはデュルケームの視点をフィールドワークに応用していました。なお、本書が刊行された1922年には、同じくイギリス人類学における参与観察の重要著作であるA.R.ラドクリフ＝ブラウンの『アンダマン島人』も発表されています。

調査方法論

マリノフスキは本書の中で、民族誌的研究を進めるための3つの柱となるべき方法を提示しました。

1. 文化の骨組みの記録: まず、社会の基盤となる制度や規範を明らかにします。具体的な統計資料を用いて、文化の構造を正確な枠組みの中で記録することの重要性を説きました。
2. 生活の実態の観察: 次に、その枠組みの中にある、数値化しにくい実生活の側面や人々の行動のパターンを捉えます。綿密な観察に基づいた民族誌的な記録を作成し、制度や慣習が実際にどのように機能しているかといった、非公式な側面を調査します。
3. 口碑文の収集と分析: 最後に、特徴的な供述、語り伝えられてきた物語、人々の発言、呪文などを、現地語での口碑文として収集します。これにより、制度や規範に対する集団の考え方、感情、そしてそこに込められた価値観や意味合いを深く理解しようと試みました。

マリノフスキは、研究対象となる人々の生きがいや幸福を理解しようとする共感的な姿勢をもって行動や心理を調査することが、人間研究から得られる最も価値ある報酬であると考えていました。

クラ（Kula）の詳細

クラは、サークル状に連なる島々の内部で行われる大規模な交易サイクルです。この交易には、ヴァイグア（Vaygu'a）と呼ばれる特定の財宝が用いられます。ヴァイグアには主に2種類あり、一つはソウラヴァ（Soulava）と呼ばれる赤い貝殻で作られた首飾り、もう一つはムワリ（Mwali）と呼ばれる白い貝殻の腕輪です。クラに参加するのは基本的に男性で、彼らはワガ（Waga）と呼ばれるカヌーを用いて遠方の島々へ遠征し、これらの財宝を授受します。

クラにおけるヴァイグアの扱いは独特です。財宝は受け取った者が短期間だけ所有し、やがて次の相手に贈り物として渡されます。ソウラヴァは時計回り、ムワリは反時計回りと、2種類の財宝はそれぞれ常に逆方向に移動し続け、クラの圏内を循環します。クラを通じて関係を結んだ相手は、遠征隊を客人として温かく迎え入れる保護者であり、相互に助け合う味方となります。このクラの関係はしばしば終生続き、参加者は遠く離れた土地にも頼れる味方を持つことができるようになります。

クラにおけるお返しの授受には時間的な間隔があります。数分後に行われることもあれば、一年以上を経てからとなることもありますが、原則として財宝の授受はその場で相互に行われることはありません。また、お返しとして何を与えるか（別のヴァイグアか、副次的な物品かなど）の選択権は、与える側が持っています。この交換のプロセスにおいて、価格を交渉したり、競り合ったりすることは禁じられています。このような特徴から、クラは一般的な物々交換（キリウィナ語でギムワリ Gimwali と呼ばれる）とは明確に区別されています。

クラには規模の異なるものが存在します。一度に相当量の財宝が移動する遠距離を伴う大規模で競争的な遠征はウヴァラク（Uvalaku）、それよりも小規模で近距離を対象とする遠征はクラ・ワラ（Kula Wala、普通のクラ）と呼ばれます。クラの共同体は通常、一つあるいは複数の村から構成され、村の住民たちは一体となって活動します。一般の住民は、自分の地区や近隣地区にクラの関係を持つ首長がおり、首長のクラ活動に対して奉仕する義務がありますが、その代わりとして首長が気前よく振る舞い、富を分配することを期待しています。

クラは単に財宝を交換するだけでなく、遠洋カヌーの建造、遠征隊の準備、日程の決定、それに伴う祭事、そして複雑な呪術体系など、さまざまな要素が関連する重層的で複雑な経済制度です。この広範な活動の累積的な結果として、ヴァイグアの移動する「クラの道」に沿って、物質文化だけでなく、習慣、歌、工芸技術といった文化全般が伝播します。これにより、部族と部族の間に網目状の社会関係が構築されるのです。マリノフスキは、クラの財宝であるヴァイグアの性質をヨーロッパ文化における貴重品に例える際に、「トロフィーないし優勝杯」という形容を用いました。これは、ヴァイグアが特定の人物が一時的に所有し、それを所有すること自体が名誉や喜びをもたらす点において類似していると考えたからです。

評価と影響

『西太平洋の遠洋航海者』は、参与観察という研究手法を確立し、人類学の研究実践に大きな影響を与えた古典として高く評価されています。本書で示された詳細な民族誌は、当時の西洋社会で一般的だった「原始共産制」のような画一的な原始経済観や、「原始社会には孤立した個人や家族しか存在せず、富や交換、価値といった概念は存在しない」といった見方に対する強力な反論となりました。マリノフスキは、クラを通じて、原始社会にも高度に象徴的で社会的な価値を持つ複雑な交換システムが存在することを示したのです。

フランスの著名な社会学者・人類学者であるマルセル・モースは、その代表作『贈与論』（1925年）の中で、マリノフスキのクラに関する研究成果を主要な論拠の一つとして引用しました。これにより、クラの研究は贈与交換論の発展にも大きく寄与することになりました。

マリノフスキの没後、彼の妻によって編集された『マリノフスキー日記』が刊行され、本書の調査が行われていた時期におけるマリノフスキ自身の内面、例えば住民に対する不満や、研究および生活に関する悩みなどが明らかになり、フィールドワークの現実とその困難さについても新たな視点を提供しました。

本書は、その詳細な民族誌記述、革新的な調査方法、そして人類学における交換理論への貢献を通じて、今日においても文化人類学の基礎を学ぶ上で不可欠な文献となっています。

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