野分 (小説)

夏目漱石『野分』：1907年の転機と3人の作家の物語

1907年（明治40年）、夏目漱石にとって大きな転換期となる年に発表された中編小説『野分』。この年は、漱石が東京大学の講師職を辞し、『朝日新聞』への本格的な寄稿を開始した年であり、同時期に『虞美人草』も連載されています。

『野分』は、雑誌『ホトトギス』に掲載され、3人の作家を軸にした物語が展開します。結核を患う青年・高柳、おしゃれで奔放な中野、そして年上の道也先生。若き大学院生である高柳と中野は、成功を夢見て互いに深く関わっています。一方、道也先生は、故郷での教職を、権力者への反発から失職し、現在は東京で編集者兼作家として生活しています。彼の妻は、夫の現状に戸惑いを隠せない様子です。道也先生は日中は雑誌編集者として働きながら、「人格論」という大作の執筆に情熱を注いでいます。

物語は、100円（当時の1ヶ月分の給料に相当）というささやかな金額をめぐる出会いをきっかけに動き出します。中野から高柳への病気療養のための温泉費用、道也先生の借金の返済、そして高柳の自己犠牲と償還。それぞれの事情が絡み合い、複雑な人間関係が描かれています。

作品の主題と他の作品との関連性

『野分』の主題は、前作の短編『二百十日』や、女性社会における成功の難しさを描いた『虞美人草』と密接に関連しています。『二百十日』と『虞美人草』が、山登りをした二人の男の哲学的な対話から始まるのに対し、『野分』は道也先生の講義から始まります。しかし、いずれの作品にも共通するのは、教訓的な側面と、社会的な批評性が含まれている点です。多くの読者や評論家から高い評価を受けているのもこのためです。

興味深いのは、『野分』と森鷗外の短編小説『青年』との共通点です。『青年』には、夏目漱石をモデルにした平田拊石が登場し、文学や知的生活について講義をしています。この点からも、『野分』が漱石自身の思想や経験を反映していることが伺えます。

また、『帝国文学』明治38年に掲載された「倫敦塔」の冒頭で言及されているように、漱石は退化論にも関心を抱いていました。『野分』では、結核に侵される高柳が、自身の病を過去の罪の継承と捉える描写が見られます。これは、漱石の退化論的な思想を反映した表現と言えるでしょう。さらに、道也先生のキャラクター造形には、イプセンの『民衆の敵』の影響が見られます。理想主義者であり、権力に屈せず真実を訴えようとする道也先生は、「民衆の敵」と呼ばれるストックマン医師と共通点が多く見られます。

『野分』は、100円という小さな出来事をきっかけに、3人の作家の葛藤と、社会における人間の生き様を描き出した、漱石の転換期を象徴する重要な作品と言えるでしょう。その複雑で奥深い物語は、現代においても多くの読者を魅了し続けています。 青空文庫で全文を読むことができます。

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