鈴木筆太郎

鈴木筆太郎：タイル状教具を用いた算数教育の先駆者

鈴木筆太郎（1865年 - 1945年）は、大正期の教育改革運動「新教育運動」の時代に、小学校の教師および校長として活躍した教育者です。特に小学校低学年における計算指導法に独自の視点を取り入れ、画期的な教育方法と教具を開発しました。彼の考案した、正方形のマスを並べて数の仕組みや位取りを教える方法は、後の水道方式におけるタイルにも通じるものであり、その実践は教育界に一石を投じるものでした。

生涯と教育への道

筆太郎は慶応元年（1865年）、現在の愛媛県にあたる地域で農家に生まれました。若い頃の詳細は明らかではありませんが、仏教系の学校で学び、漢文の書物を多く読むなど、広く知識を吸収したようです。20歳になった1885年（明治18年）に村の簡易小学校で教育に関わるようになり、教員免許取得を経て小学校教員となります。その後、まもなく結婚。27歳で上分小学校の校長に就任し、1895年（明治28年）には30歳で川之江尋常高等小学校の校長を務めるなど、早い段階から教育現場の責任者として手腕を発揮しました。当時の高等小学校は進学率が低く、地域のエリート層が進む学校でした。

算数教育改革への取り組み

1897年（明治30年）、別子尋常高等小学校の校長に赴任した筆太郎は、教師たちが算数（当時は算術）の授業で苦労している様子を目の当たりにし、1905年頃（明治38年）から算数教育の研究に深く没頭するようになります。彼は初歩の算術において、「数の基本原理」と「十進法の位取り」の理解が重要であると考え、これらを子どもたちが直感的に把握できるような教具の開発に着手しました。

独自の教具「別子教数器」の発明

研究の成果として筆太郎が生み出したのが、「正方形を使って数と数字の位取りを教える教具」であり、後に「別子教数器」と名付けられました。1907年からは『愛媛教育雑誌』にこの教具に関する論文を精力的に発表します。別子教数器は、厚紙で作られた一辺約5cmの正方形を基本単位として1を表し、この正方形を5枚2列に並べた10個のまとまりを「10の長方形」と見なすことで十進法を教えるものでした。

さらに筆太郎は、この別子教数器をより手軽に使えるように簡略化した「折畳教数盤」も考案しました。これらの教具は、10個集まった下位の単位が、上位の単位の1個と等しいことを視覚的に示す仕組みになっていました。例えば、10個の正方形のまとまりが、裏返すと1つの大きな白い長方形に見えるように工夫されており、筆太郎はこの操作を通じて「下位の10個を上位の1個にまとめる」ことを「十個一括」、「上位の1個を下位の10個に分ける」ことを「一個十割」と呼び、子どもたちに位取りの原理を直感的に理解させようとしました。また、「十進系統図」という教具を用いて、各単位が下位単位の10倍、100倍となっている関係も教えました。

特筆すべきは、筆太郎の教具が「黒い背景に白い正方形を出す」デザインを採用していた点です。これにより、正方形を数える際に、背景の黒い部分、つまり「残りの数」が自然と意識されるようになり、「3つの白い正方形」と「2つの黒い背景」を見ることで「3+2=5」や「5-2=3」といった基礎的な計算（水道方式でいう素過程）が無理なく理解できると考えました。筆太郎は、これらの教具を用いた綿密な授業計画を作成しました。

「0」の重要性と実践効果

筆太郎は、数の読み方においても独特の指導を行いました。特に十や一の位が空位である場合、「七十」を「ナナ十、レイ」、「百」を「（いち）百、レイ、レイ」のように、空位であることを示す「レイ（0）」という言葉を添えて唱えることを推奨しました。これは、子どもたちが数を直感的に捉えている段階に合わせて指導することが重要だと考えたからです。

自身の考案した指導法の有効性を検証するため、筆太郎は実験授業を実施しました。「計算テストでクラス平均が80点以上なら成功、60点以下なら問題あり」という基準を設け、従来の指導法との比較を行いました。その結果、従来の指導法では平均45点だったクラスが、筆太郎の授業プランで指導したところ平均82点に向上するという劇的な成果が得られました。この実践結果を、筆太郎は1910年（明治43年）に私家版の冊子にまとめ、当時の著名な教育学者や数学者、例えば澤柳政太郎らに送付し、高い評価を得ました。

別子小学校には筆太郎の授業視察に訪れる関係者もあり、彼の教具は一時期、十数府県にまで広まりました。しかし、それ以上の全国的な普及には至らず、筆太郎は「良いものだからといって、必ずしも歓迎されるものではないということを知りました」と振り返っています。

その後、1916年（大正5年）に私立住友東平尋常高等小学校の校長に転じた後も算数の授業を担当し、1年生の学年末にはクラス平均が90点を超える成績を収めました。他の学校との学力比較でも、筆太郎の教えたクラスが最も優秀な成績を示しました。

筆太郎はまた、「教師の教育研究の自由」の重要性も強く訴えました。「本当に教育に関心を持ち、実験的な研究を試みたいという教師がいるならば、内規などで束縛せず、その学級運営は自由に任せるべきだ」と主張しています。

退職後の普及活動と模倣問題

1925年（大正14年）、60歳で校長を退職した筆太郎は、その後も自身の教具と授業プランの普及に情熱を注ぎました。1927年（昭和2年）には、研究成果をまとめた著書『低学年算術新教授法案』を出版。さらに講習会を開催し、別子教数器の使い方や授業計画の指導にあたりました。その活動の結果、彼の授業プランを採用する学校が複数現れ、松山市内に「十一堂」という店を開設して教具の安定供給にも努めました。1929年頃には、少数ながら台湾、朝鮮、北海道など遠隔地でも彼の方法を実践する教師が現れたといいます。

しかし、筆太郎の教具が紹介される以前は、主に円で数を表す「数図」が用いられており、正方形を用いた数図は一般的ではありませんでした。筆太郎の発表以降、彼の考案した「5個1列」の数図や、「黒い背景」の要素を取り入れた数図が現れるようになります。皮肉なことに、これらの模倣的な数図を用いた書籍には、筆太郎の研究成果を参照した典拠がほとんど記載されませんでした。

さらに、成城小学校の教育者であった佐藤武は、1919年に筆太郎の説を批判しつつも、欧米の数図に加えて「別子教数器の上に円を描き加えただけの教具」を紹介し、それが欧米のものより優れていると評価しました。これらの模倣された教具の多くは、筆太郎が最も重要視した「十個一括」による十進法の直感的理解を促す要素を欠いていたのです。結果として、筆太郎が期待したような、研究成果を積極的に評価・継承する動きは限定的であり、彼の功績は正当に評価されないまま、教育研究者たちの間で忘れ去られていきました。

筆太郎自身は、1927年の著書の中で、特に円を並べた数図による模倣について厳しく批判しています。「数の基本的な概念を形作るだけならどちらでもよいが、加減の計算原理を教える点では優劣が生じる。さらに十進法の論理である『十個一括』を明確に示すためには、5個1列で10個をまとめる形式、そしてそれが正方形であることが不可欠である」と、自身の教具の優位性を力説しました。これは、1958年に水道方式を提唱した遠山啓が、正方形タイルが「切ったりつないだり」が容易で、離散量だけでなく連続量も表現できる利点を挙げたことにも通じる考え方です。

理論と実践の評価

筆太郎が算数教育の研究を始めるきっかけとなった1905年の調査では、高等小学校児童95人の四則計算の平均点はわずか45点でした。しかし、彼の授業プランで指導を受けた児童は3年後の同じテストで平均82点を記録し、児童へのアンケートでも「算術科が一番好き」と答える割合が最も高かったという事実は、その教育効果の高さを示しています。1911年にはこれらの成果を『算術教授法に関する新研究』として公表しています。筆太郎の授業を経験した教師の中には、「算数の時間になると子どもが手をたたいて喜ぶのは初めての経験だ」と驚きを語る者もいました。

同時代の小学校長、田籠松三郎も「骨牌」と呼ばれる正方形のタイル状教具を用いて数の概念やかけ算を教える方法を考案しましたが、筆太郎の教具の方が十進位取りの仕組みを直感的に理解させる上で優れているという評価もあります。

鈴木筆太郎は、実験に基づいた教育研究を重視し、子どもたちの具体的な理解を促すための教具開発と指導法確立に尽力しました。彼の画期的な試みは、その後の算数教育における具象的な教材の活用や、子ども主体の学びへの探求に、間接的ではあるものの重要な示唆を与えたと言えるでしょう。しかし、研究成果が正当に評価・継承されなかった歴史は、教育実践と理論普及の難しさをも物語っています。

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