駿州片倉茶園ノ不二

葛飾北斎『駿州片倉茶園ノ不二』：富士と茶園の謎めいた風景

葛飾北斎の代表作として名高い『冨嶽三十六景』の中に、「駿州片倉茶園ノ不二」という作品が存在します。この絵は、雄大な富士山と、駿河国（現在の静岡県）の茶畑を組み合わせた風景を描写しています。しかし、一見穏やかなこの風景画には、いくつかの謎と興味深い点が隠されています。

謎めいた「片倉」の場所

まず、作品名にある「片倉」という地名は、長らくその所在が不明でした。近年の研究で、静岡県富士市中野付近にあったことが判明しましたが、江戸時代当時、絵のような広大な茶畑が存在したかどうかは、いまだ定かではありません。近隣の旧大渕村にあった「大渕笹場」がモデルではないかとする説もありますが、確証はありません。北斎が実際にその地を訪れたのか、あるいは伝聞や想像に基づいて描いたのかは、今後の研究課題と言えるでしょう。

季節のミステリー：晩秋か、初春か？

絵には、茶摘みをする女性や、力仕事をこなす男性たちが描かれています。しかし、茶畑の茶葉の色は枯れたような黄色みを帯びており、背景には稲刈り後の積み藁も見られます。このことから、晩秋に描かれた作品ではないかとする見方があります。もしそうだとすれば、本来春から夏に行われる茶摘みの時期を北斎が誤認していたことになり、直接茶摘みの様子を見て描いたとは言い難くなります。

一方で、絵の中の富士山には残雪が残っており、初春を暗示しているという解釈もあります。この場合、北斎は緑の茶畑を見て描いたものの、周囲の背景と茶畑の色が同化しないように、あえて茶畑を黄色く表現した可能性が考えられます。季節感の描写については、様々な解釈が提示されており、北斎の意図を完全に解明することは困難です。

版元競争と馬の腹掛け

絵の中に描かれた二頭の馬の腹掛けには、版元である西村屋与八の印がデザインされています。これは、江戸時代の浮世絵版画において、版元間の競争が激化していたことを示す一例です。版元は、自社の作品を宣伝するために、版画の細部まで工夫を凝らしていたのです。この小さな印は、当時の版画業界の競争の激しさと、版元の販売戦略の一端を垣間見せてくれます。

北斎と『冨嶽三十六景』

「駿州片倉茶園ノ不二」は、『冨嶽三十六景』というシリーズの一枚に過ぎませんが、この作品には、北斎の卓越した画力、そして当時の社会情勢や風俗までもが反映されています。茶畑と富士山の組み合わせは、一見シンプルながらも、そこに込められた謎や解釈の多様性が、この作品をより魅力的なものへと昇華させていると言えるでしょう。 北斎がどのような意図を持ってこの作品を描いたのか、今後も様々な角度からの研究が続けられることが期待されます。

参考文献

安村敏信「北斎 冨嶽三十六景の旅 天才絵師が描いた風景を歩く」『太陽の地図帖』 5巻、平凡社、2010年
日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年
『版画芸術』 203巻、阿部出版、2024年

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