2R仮説

「2R仮説」（にアールかせつ）は、「大野の仮説」とも称される、遺伝学者の大野乾（おおの・すすむ）が1970年に初めて提唱した分子進化に関する学説です。この仮説の核心は、脊椎動物が進化の初期段階において、そのゲノム全体が一度ならず複数回にわたって重複現象（全ゲノム重複）を経験し、その結果として現在の脊椎動物のゲノムは、その原始的な祖先のゲノムと比較して多倍数体になっているというものです。仮説の名称である「2R」は、当初「2 rounds of duplication」（2回の重複）と呼ばれていたことに由来しており、1999年頃からこの呼称が広く使われるようになったとされます。重複回数は変化する可能性が示唆されていますが、一般的に典型的な回数とされる「2回」を指して「2R仮説」と呼ばれ続けています。提唱以来、この仮説は分子生物学や進化生物学の分野で広範な研究と議論を引き起こしており、特にヒトゲノムなど最新のデータが利用可能になった現在でも、その妥当性を巡る論争は絶えません。

大野乾は、遺伝子重複が進化において普遍的に重要な役割を果たすという自身の重層的な考察の一部として、この全ゲノム重複仮説の原型を示しました。彼は、当時の既知の情報、特に生物種のゲノムサイズが相対的に異なる点に着目し、魚類や両生類の共通祖先が、少なくとも一度、そしておそらくは複数回にわたり全ゲノムが倍加する「4倍体進化」を遂げた可能性を推測しました。さらに、大野はこの議論を深めるため、脊椎動物に多く見られる重複遺伝子の間に、遺伝的な連鎖がほとんど見られないという証拠を付け加えました。彼は、個々の遺伝子が同じ染色体上の近傍で複製される「タンデム重複」であれば遺伝的連鎖が生じるはずだが、染色体セット全体が重複する場合には、このような連鎖は期待されない、と指摘しました。この点が、全ゲノム重複という広範な現象を支持する根拠の一つとされました。

1990年代に入ると、分子生物学的手法の進展に伴い、2R仮説は改めて多くの研究者の関心を集めるようになります。全ゲノム重複がもし実際に起こっていたとすれば、それはいつ頃だったのか、そして具体的に何回だったのか、といった点について、分子データに基づく新たな研究結果が次々と発表され始めました。重複の時期については、概ね5億4千万年前から4億5千万年前の間と推定される研究が多く見られました。重複の回数については、哺乳類などが持つ遺伝子の数を基準として推定が行われました。初期の推定では、脊椎動物のゲノムは無脊椎動物のゲノムの約4倍に相当すると見積もられ、これが2回の全ゲノム重複を示唆する根拠とされました。しかし、その後のより詳細なゲノム解析に基づいた研究では、重複後の遺伝子消失などを考慮すると、重複回数から期待される遺伝子数との整合性が必ずしも取れない場合もあり、最近の推定では2倍以下を示唆する結果も見られるようになっています。

特に、ヒトゲノムの詳細な解析が進むにつれて、遺伝子ファミリーの中には2R仮説によって予測されるパターンとは異なる構造を示すものも発見されています。また、進化系統樹を構築する際に最も単純な経路を選択する「最節約原理」を用いた解析では、必ずしも2R仮説を強く支持する結果は得られないものの、同時に仮説を完全に否定するまでには至らない、という中間的な結論も報告されています。この論争の状況について、Wojciech Makałowskiは2001年のレビュー論文で、「脊椎動物の初期に全ゲノム重複が起こったという仮説は、それを支持する多くの研究結果がある一方で、反対する結果も同様に多い」と述べています。Makałowskiは、当時の最新データを総合的に見ると、反対の結果の方がやや優勢であるように見えるとしながらも、データの収集範囲や解析方法を調整することで結果が変わる可能性があるため、この仮説を明確に反証することも容易ではない、と複雑な状況を示しました。しかし、ヒトゲノムの生データを用いて大規模な重複解析を行った研究者の中には、全ゲノム重複が広範に起こっていた証拠が見つかったと主張し、さらに、仮説に疑問を投げかけた最節約法などの解析手法自体の妥当性にも疑義を呈する意見も見られました。そして、2007年にはMasanori Kasaharaが別のレビュー論文を発表し、そこでは「今やこの仮説を支持する、議論の余地のない確固たる証拠が得られている」と力強く述べ、長年にわたる2R仮説を巡る論争が終結する日も近いかもしれない、という見解を示しました。このように、2R仮説は提唱以来、支持と反証、そして新たな証拠による状況の変化を繰り返しつつ、現在も分子進化研究における重要なトピックであり続けています。

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