サン・ヴィセンテの祭壇画

『サン・ヴィセンテの祭壇画』（Painéis de São Vicente de Fora）は、1883年に発見されたポルトガルの重要な絵画作品です。この祭壇画は国の宝として指定されており、現在、リスボンにある国立古美術館に収蔵されています。リスボンの守護聖人である聖ヴィセンテの名を冠しており、作品全体からは大航海時代のポルトガル社会、特にその多様な階層や人物像が垣間見えることから、「大航海時代のポルトガルの縮図」とも称されます。しかしながら、この祭壇画を巡っては、誰が制作したのか、いつ描かれたのか、どのような目的で制作されたのか、そしてパネルに描かれている人物は誰なのか、といった根源的な問いに対する確固たる答えが存在しません。今日に至るまで、これらの謎は美術史家や研究者の間で活発な議論の対象となっています。

構造と構成要素

この祭壇画は、中央に位置する聖人像を中心に、左右に配された計6枚のパネルから構成されています。各パネルは、描かれている集団や著名な人物にちなんで通称が付けられています。向かって左側から順に、「修道僧のパネル」「漁師のパネル」「エンリケ航海王子のパネル」「陸軍総司令官のパネル」「騎士のパネル」「聖遺物のパネル」と呼ばれています。なお、祭壇画の中央に描かれた聖人については、一般的にはリスボンの守護聖人である聖ヴィセンテであるとされていますが、これについても異説が存在します。例えば、ジョアン1世の末子で、人質として非業の死を遂げたフェルナンド王子ではないかとする説や、中央に二人描かれている人物の服装の微妙な違いから、1147年のリスボン奪回時に殉教したとされるサン・クレスピンとサン・クリスピーノの兄弟聖人ではないかとする説なども提示されています。

制作者と制作意図に関する諸説

祭壇画の制作者については、長らくポルトガル王アフォンソ5世の宮廷画家であったヌーノ・ゴンサルヴェスであると信じられてきました。しかし、近年の研究では、この説に対して疑問が投げかけられています。また、制作された動機に関しても、一つの明確な理由は特定されていません。様々な説が提唱されており、例えば、ポルトガルが大航海時代に成し遂げた偉大な航海上の業績を称賛するために描かれたという説や、アフォンソ5世の即位直後に起こった叔父コインブラ公ペドロとの内紛といった悲劇の再発を防ぐため、アヴィス王家の結束を促す目的で制作されたとする説、さらには1471年のタンジェ攻略成功という具体的な軍事的な勝利を記念するために描かれたとする説などがあります。これらの多様な解釈が存在すること自体が、この祭壇画の多層性を示唆しています。

人物特定、特にエンリケ航海王子を巡る謎

『サン・ヴィセンテの祭壇画』に関する議論の中で、最も活発に行われているのが、パネルに描かれた個々の人物を特定する試みです。中でも、エンリケ航海王子とされる人物像は特に注目され、大きな論争の的となってきました。一般的に、エンリケ航海王子として広く認識されているのは、左から3番目のパネル、すなわち中央の聖人の右側に立つ、口ひげを蓄え、黒い鍔のある帽子を被った人物です。この人物像がエンリケ航海王子の一般的なイメージとして定着し、このパネルが通称「エンリケ航海王子のパネル」と呼ばれるようになった背景には、1837年に発見された年代記『ギネー発見征服誌』の存在があります。この書物には、祭壇画に描かれたのと全く同じ容姿の人物の挿絵が含まれており、その下にエンリケの標語とされる「最善を尽くせ（Talant de bien faire）」が記されていたことが、両者を同一視する強力な根拠とされました。

しかし近年、この一般的な説に対して異論が唱えられています。現在では、左から3番目の人物はむしろエンリケ航海王子の兄であるドゥアルテ1世ではないかとする見方が有力視されています。そして、エンリケ航海王子本人は、向かって右から2番目の「騎士のパネル」の最前列で、両手を合わせてひざまずいている人物であるという説が支持を集めています。この説の根拠としては、このひざまずく人物の顔つきや体格が、エンリケの他の肖像や当時の記録とより一致すること、さらに彼が身に着けている服装や紋章が、エンリケが総長を務めていたキリスト騎士団のものであることが挙げられます。

さらに複雑なことに、そもそもエンリケ航海王子はこの祭壇画には描かれていない、という全く異なる解釈まで登場しています。このように、誰が描かれているのかという最も基本的な点においても定説がなく、祭壇画を巡る謎は深まるばかりです。制作者、制作年代、動機、そして登場人物。これらの謎が未解決であるからこそ、『サン・ヴィセンテの祭壇画』は今なお、多くの研究者や美術愛好家を引きつけ、活発な議論を呼び起こし続けているのです。

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