奏者

「奏者（そうしゃ）」という言葉は、時代や文脈によって異なる意味合いを持つ多義的な語彙です。特に日本の歴史においては、特定の役職名やその通称として用いられてきました。現代において楽器を演奏する人を指す場合は、「演奏者」という言葉を用いるのが一般的であり、「奏者」という語が専ら楽器の演奏者のみを指すケースは稀と言えます。

歴史上の「奏者」という言葉の主な用例としては、まず江戸幕府に置かれた役職である「奏者番（そうしゃばん）」の通称あるいは略称として使われる場合が挙げられます。奏者番は、江戸幕府における重要な役職の一つであり、主に大名や旗本といった幕府の臣下と将軍との間の取次ぎ役を務めました。彼らは、大名からの献上品の受け渡しを行ったり、幕府の儀式や行事における序列の決定に関与したりするなど、将軍と諸大名との関係を取り持つ上で極めて重要な役割を担っていました。また、奏者番は老中などの幕府の重臣と連携し、幕府の運営に関わる様々な情報の伝達や調整を行いました。この役職は、幕府の政治機構において情報のハブ機能を持つと同時に、諸大名の統制という側面も持ち合わせていたため、幕府内での地位も高く、通常は格式の高い大名や有力な旗本が任命されました。奏者番は複数名置かれ、月番制などで職務を分担していました。この江戸幕府の奏者番こそが、歴史用語としての「奏者」という言葉が最も一般的に指す対象の一つです。単に「奏者」と言った場合、この奏者番を意味することが多いのです。

さらに遡ると、日本の前近代においても「奏者」と呼ばれる役職が存在しました。これは江戸幕府の奏者番とは性格が異なり、一般に「申次（もうしつぎ）」とも呼ばれる役職と関連が深いとされています。申次は、朝廷や武家社会において、主君と家臣、あるいは異なる身分間の人々との間の連絡や取次ぎを行う役割を担いました。彼らは、請願や陳情を主君に取り次いだり、主君の意向を関係者に伝えたりするなど、コミュニケーションの円滑化を図る重要な役割を担っていました。時代や組織によってその具体的な職務や地位は異なりますが、主として人々からの意見や願いを上位者に取り次ぎ、その結果を下位者に伝えるという「奏上（そうじょう）」や「申達（もうしたつ）」といった行為を担うことから、「奏者」という言葉が使われることがありました。特に中世から近世にかけての武家政権において、この申次の機能は重要な意味を持っていました。

現代において「奏者」という言葉を聞く機会がないわけではありませんが、通常、楽器を演奏する人々を指す場合は、「演奏者」という言葉が一般的に使用されます。例えば、ピアノ奏者やヴァイオリン奏者といった言い方もありますが、これらは専門的な文脈や特定の表現に限られることが多く、広く一般的な場面では「ピアニスト」や「ヴァイオリニスト」、あるいは単に「演奏者」と呼ぶのが普通です。

このように、「奏者」という言葉は、日本の歴史、特に武家社会における取次ぎ役や連絡役といった特定の役職を指す場合と、現代における楽器演奏者を指す場合とで、その意味するところが大きく異なります。辞書などで「奏者」という項目を参照する際には、どの時代の、どのような文脈における「奏者」について述べられているのかを注意深く見分ける必要があります。主に歴史上の役職、特に江戸幕府の奏者番を指すことが多い言葉であると理解するのが適切です。

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