思

思（し）とは

仏教において「思（し）」と呼ばれる言葉は、パーリ語およびサンスクリット語の「チェータナー（Cetanā）」を語源としています。この言葉は、一般的な意味では意志、意図、または方向性と訳されることが多いです。特に、ある特定の方向性や目標、ゴールを目指そうとする能動的な心の働き、すなわち意志作用を指す概念として用いられます。

思は、単なる思考や感情とは異なり、私たちの行動や言動を特定の方向へ駆り立てる内的な力、推進力として捉えられます。このため、仏教においては、私たちの行為や経験の連鎖を生み出す根本的な要因として、非常に重要な位置づけがなされています。

仏教教義における位置づけ

思は、仏教の様々な教義体系の中で、心のはたらき（心所）の一つとして説かれています。その位置づけは、仏教の宗派やアビダルマ（論蔵）の解説によって異なりますが、中心的な心所として扱われる点は共通しています。

上座部仏教：アビダンマッタサンガハ（『アビダルマ概要』）などの教義体系において、思は「七心所」の一つに数えられます。これは、どのような心が生じる際にも必ず共に生起するとされる基本的な七つの心所の一つであり、その普遍性と重要性を示しています。

説一切有部：倶舎論などに説かれるアビダルマにおいては、思は「十大善地法」の一つとされます。これは、善なる心が生じる際に必ず共に生起するとされる十の心所であり、思が善行為を促進する上での根本的な要素であることを示しています。

* 大乗仏教：唯識派の教義などにおいては、思は「五心所」の一つに挙げられることがあります。これは、全ての心に遍く存在する五つの心所の一つとされ、ここでも思の普遍的で重要な性質が強調されています。

これらの分類からもわかるように、思は仏教における心の分析において、非常に根本的かつ活動的な要素として認識されています。

業（カルマ）との深い関わり

仏教において、思は「業（カルマ）」の創造に最も深く関わる精神作用であると説かれています。業とは、私たちの行為が未来の結果（楽果や苦果）を生み出す原因となるという考え方です。この業を生み出す上で、行為そのものよりも、その行為の背後にある思（意志、意図）こそが最も重要な要因であると考えられています。

たとえば、同じ行為を行ったとしても、その行為がどのような意図に基づいてなされたかによって、生じる業の性質や結果は異なると説かれます。悪意を持って行った行為は悪い結果を招き、善意を持って行った行為は良い結果を招く、というのが基本的な考え方です。

上座部仏教では、思が身（身体による行為）、口（言語による行為）、意（思考による行為）という三業を形成すると考えられています。つまり、私たちの身体的な動き、言葉、そして心の中で考えていること、これらすべての行為は、それに先立つ「思」によって方向づけられ、形作られるということです。そして、これらの三業を通じて表出される思の性質が、その行為の善悪を決定するのです。

因果の道理と自律

仏教は「すべてのものには原因があり、結果がある」という因果の道理（因果律）を根本的な世界観とします。この因果の道理からすれば、私たちの意志である「思」もまた、偶然や外部からの強制によって一方的に決定されるものではなく、それ自身の原因を持ち、また自らも未来の結果を生み出す原因となるものとして捉えられます。

つまり、私たちの「思」は、因果の連鎖の中にありつつも、ある種の自発性を持つことが認められています。この自発性があるからこそ、私たちは自身の意志によって、どのような行為をするかを選択し、それに応じた結果を受け取ることになります。

「善い行いは楽しみの結果（楽果）を招き、悪い行いは苦しみの結果（苦果）を招く（善因楽果・悪因苦果）」という業の応報も、この思の自発性と因果律に基づいています。もし思が完全に外部から決定されるものであるなら、行為の結果に対する個人の責任は問えなくなります。しかし、仏教では個人の行為とその結果に対する責任を明確に説きます。これは、私たちが自身の「思」をある程度コントロールし、善き方向へ導くことができるという立場を取っているからです。

このことから、仏教は私たち自身が自身の思を観察し、制御し、善き意図をもって行為を選択すること、すなわち自律の重要性を説くのです。自己の思を清らかに保つこと、あるいは悪しき思が生じたときにそれを抑制することは、苦しみから離れ、安楽を得るための仏道修行の根本的な実践となります。

まとめ

思（チェータナー）は、特定の方向へ向かう意志、意図といった心の働きであり、仏教においては業を形成する上で最も重要な精神作用とされます。私たちの身・口・意といった具体的な行為は思によって形作られ、行為の善悪も思によって決定されます。因果律の中で自発性を持つ思は、善因楽果・悪因苦果という業の応報をもたらす基盤であり、したがって仏教は思を制御し、自律的な生き方をすることの重要性を説くのです。思を正しく理解し、自己の思を善き方向へ導くことは、仏道における解脱への道を歩む上で欠かせない要素と言えるでしょう。

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