更科堀井

江戸寛政元年（1789年）、後に「更科堀井」の源流となるそば店は、江戸の麻布永坂町に誕生しました。創業者は、信州高遠藩の保科松平家に御用布屋として出入りしていた堀井家八代目、堀井清右衛門です。彼は信州特産の晒布を取り扱っており、その傍らでそば打ちの才を見込まれ、藩主からの勧めもあり、かつて滞在を許されていた保科家江戸屋敷近くに「信州更科蕎麦所布屋太兵衛」の看板を掲げました。

開業当初、この店は主に大名屋敷や寺院といった限られた顧客層に出入りしていましたが、その評判はやがて江戸中に広まります。特に、将軍家御用を務めたとされる「御膳蕎麦」は、白く洗練された更科そばの代名詞となり、多くの支持を集めました。明治時代半ばに最盛期を迎えた頃には、皇室や宮家にも出前を届けるほどの繁栄を極めました。また、店主が仏心厚かったことから、増上寺との結びつきも深く、その繁盛に拍車をかけましたと言われています。江戸時代の文献、『江戸買物独案内』や『江戸名物酒飯手引草』にもその名が記されており、当時の人気ぶりがうかがえます。

創業以来、五代にわたって本店のみでの営業を貫いていましたが、明治時代に入ると一門からの暖簾分けや支店開設が始まりました。神田錦町に初代堀井丈太郎が開いた「神田錦町分店」を皮切りに、深川、日本橋、牛込、芝、下谷など各地に新たな店が生まれ、昭和初期には「更科お七軒様」と称されるほどの一門を形成していました。

しかし、歴史の荒波は名店をも襲います。大正末期から昭和初期にかけて、関東大震災、国内外の金融恐慌、そして堀井家が出資していた銀行の倒産といった幾重もの困難が重なり、本店は昭和16年（1941年）、当時の七代目当主の代に惜しまれつつ廃業へと追い込まれました。本店の廃業とともに、多くの一門店も店を閉じ、残ったのは「錦町」と「有楽町」のわずか二店のみとなりました。この危機に際し、親族が集まり本店を継承する話も出ましたが、錦町の二代目堀井亀雄はこれを固辞し、当時の七代目当主の身柄を引き取る道を選びました。

戦後、混乱の中でそば店の再建が試みられますが、この時期に複雑な屋号の問題が発生しました。昭和23年（1948年）、料理屋を営んでいた馬場繁太郎氏が、伝統再開に関わった堀井家七代目当主との間で商号の使用許可に関する契約を結び、麻布十番に「永坂更科本店」を開店します。翌年には、この七代目当主を含む関係者によって合資会社「麻布永坂更科総本店」が設立され、伝統の暖簾が改めて再開されました。しかし、この際、店名商標登録が法人名義となったことが、後に「厄介な問題」を引き起こすことになります。その後、馬場氏による「株式会社麻布永坂更科本店」の設立、小林勇氏による「永坂更科布屋太兵衛」の設立など、複数の「永坂更科」を名乗る店が誕生し、商号を巡る争いも発生しました。

この状況下、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」の専務取締役を務めていた堀井良造氏（後の八代目）は、24年間勤めた会社を離れ、昭和59年（1984年）12月に、現在の麻布十番の地に自らの店を構えました。当初は「信州更科布屋総本店」として開店しましたが、「布屋」の商号使用を巡る問題が生じ、最終的に地元の人々が親しみを込めて呼んでいた「堀井の更科」から着想を得て、「更科堀井」へと改称しました。この改称により、戦後続いていた堀井家ゆかりの三つの主要な「更科」の屋号問題に一つの区切りがつけられたと言えます。

平成28年（2016年）、九代目として堀井良教氏が暖簾を受け継ぎ、「更科堀井」は新たな時代を迎えます。伝統の味と技を守りながら、その歩みは国内に留まらず、令和3年（2021年）にはニューヨークへの海外進出も果たし、世界にその名を知らしめることとなりました。

麻布十番の地に本店を構える「更科堀井」は、二百余年に及ぶ激動の歴史を乗り越え、今なお多くのそば愛好家から支持されています。創業以来受け継がれる洗練された更科そば、そして歴史に裏打ちされた確かな仕事は、訪れる人々に深い感動と満足を与え続けています。店舗は麻布十番本店のほか、伊勢丹立川店、日本橋高島屋店にも展開しており、伝統の味をより身近に楽しむことができます。

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