けものみち (松本清張)

松本清張『けものみち』

松本清張による長編小説『けものみち』は、戦後日本の社会に潜む権力構造の深部、すなわち「けものみち」と呼ばれる裏社会に足を踏み入れた人々の激しい運命の変転を描いた、著者の社会派サスペンスを代表する作品の一つです。

本作は『週刊新潮』誌上で1962年1月から1963年12月まで連載され、その翌年の1964年5月に新潮社より単行本として刊行されました。発表から長い年月を経た現在も、多くの読者に支持され、電子書籍版も利用可能です。

物語は、脳の病で寝たきりとなった夫、成沢寛次を支えるため、旅館の女中として働く女性、成沢民子を中心に展開します。夫は病状からか、民子に対し猜疑心を深め、帰宅するたびに粘着質な嫌がらせを繰り返します。閉塞した日常に苦しむ民子の前に現れたのは、ニュー・ローヤル・ホテルの支配人、小滝章二郎でした。小滝は、民子に現在の苦境から脱出し、より安楽な生活へと導くことを示唆します。

小滝の誘いに応じることを決意した民子は、火災に見せかけ、夫の命を奪うことを決行します。その後、民子は弁護士の秦野重武によって、政財界に絶大な影響力を持つ老人、鬼頭洪太の邸宅に連れて行かれます。小滝が民子に示唆した新たな人生とは、鬼頭の愛人となることだったのです。民子は鬼頭の庇護を得て、また小滝とも関係を続けながら、奔放な生活を謳歌し始めます。

一方、夫の焼死事件は、小滝によるアリバイ証言もあり、警察と消防によって失火と判断されていました。しかし、事件を担当した警視庁捜査一課のベテラン刑事、久恒義夫は、この火災に疑念を抱き、独自に捜査を進めます。やがて、彼は民子が夫を意図的に殺害したという結論に至ります。民子の持つ妖しい美しさに魅せられた久恒は、自らが掴んだ証拠をちらつかせ、民子にたびたび肉体関係を強要するようになります。

しかし、久恒はささいな理由で突如として警察官を免職されてしまいます。自身の解雇の裏に鬼頭の影を感じ取った久恒は、これまでに調べ上げた鬼頭の不正や闇に関する情報を手紙にまとめ、新聞社に持ち込みますが、鬼頭の権勢を恐れる各社は、いずれも記事化を拒否します。改めて鬼頭の力の大きさを知った久恒は、戦略を変更。失踪した鬼頭家の女中頭、米子の殺害事件の真相を追うことで、鬼頭を追い詰める新たな道を模索し始めます。

主要な登場人物としては、運命の変転を遂げる主人公成沢民子、彼女を裏社会へ導く小滝章二郎、政財界のフィクサー鬼頭洪太、鬼頭や小滝と繋がる弁護士秦野重武、そして民子を追う刑事久恒義夫などが挙げられます。

作品執筆の背景には、著者自身が受け取った仲居からの身の上相談の手紙があったと、後のドラマ版演出家である和田勉は語っています。本作は連載当時から大きな反響を呼び、特に『週刊新潮』は増刷されるほどの人気を博しました。

物語に登場する「ニュー・ローヤル・ホテル」は、赤坂にある高級ホテルがモデルではないかという推測がなされています。また、黒幕である鬼頭洪太には、児玉誉士夫や辻嘉六といった実在の人物をモデルとする説が存在します。文芸評論家の細谷正充は、本作における政財界の描写が、単なる道具立てではなく、その闇そのものを深く掘り下げている点で、類を見ない作品だと評価しています。

『けものみち』は発表後、様々なメディアで映像化されました。1965年には東宝により映画化（主演：池内淳子）され、その後も複数回にわたってテレビドラマ化されています。特に、1982年にはNHKの『土曜ドラマ』枠で名取裕子主演で全3回で放送され、テレビ大賞優秀番組賞を受賞するなど高い評価を得ました。和田勉氏の演出、山崎努氏や伊東四朗氏の出演、さらに清張邸での撮影が行われたことでも知られます。1991年には日本テレビ『火曜サスペンス劇場』で十朱幸代主演で、2006年にはテレビ朝日『木曜ドラマ』で米倉涼子主演で、それぞれ制作・放送され、時代と共に異なる解釈で物語が描かれています。

『けものみち』は、人間の欲望、権力の構造、そしてそこに翻弄される個人の悲劇を描き出し、今なお色褪せない魅力を放つ傑作です。

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