たのしい知識

『たのしい知識』：革命と映像の狭間で生まれたゴダールの問題作

1968年、世界は激動の時代を迎えようとしていました。フランスでは五月革命が勃発し、社会全体が変革を求める機運に包まれていました。そんな時代を背景に、ジャン＝リュック・ゴダール監督は、彼の代表作の一つである『たのしい知識』（原題：Le Gai Savoir）を世に送り出しました。この作品は、単なる映画という枠組みを超え、当時の社会情勢やゴダールの思想を反映した、実験的で挑発的な作品として知られています。

制作背景：ゴダールの思想的転換と五月革命

ゴダールは、1960年代中盤、シネマ・ヴェリテの手法を取り入れ、若い世代の意識や考え方を映し出す作品を制作していました。しかし、彼の関心は次第に政治へと傾いていきます。毛沢東思想や新たなマルクス主義に共鳴し、ドキュメンタリー作家クリス・マルケルの呼びかけに応じたオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』に参加するなど、彼の活動は政治的色彩を強めていきました。

『たのしい知識』の制作も、そのような時代の流れとゴダールの思想的変化の産物でした。若いマオイストの青年との出会いや、アンヌ・ヴィアゼムスキーとの結婚、そして「商業映画との決別宣言」など、ゴダールを取り巻く環境は大きく変化していたのです。本作は、当初フランス放送協会からの依頼で「ジャン＝ジャック・ルソー『エミール』の映画化」として始まりましたが、ルソーの哲学を直接的に描くのではなく、より抽象的で実験的な作品へと変化を遂げていきます。

映画の内容：思想と映像実験の融合

『たのしい知識』は、明確なプロットを持たない、実験的な映画です。大学闘争に参加したエミールと、工場での闘争で解雇されたパトリシアという二人の若者が、真っ暗なスタジオで出会うところから物語が始まります。彼らは、思想、テレビ、映画、光、そして革命について語り合い、議論を交わします。

この議論は、単なる会話劇ではなく、ゴダール自身の思想や、当時の社会状況に対する考察を反映したものです。作品内では、映像と音響の様々な実験が行われており、それらは、当時の社会構造や権力に対する批判的な視点を表現する手段として用いられています。

また、登場人物の名前にも注目すべき点があります。「エミール・ルソー」は、ルソーの『エミール』の主人公の名前、「パトリシア・ルムンバ」は、コンゴ民主共和国初代首相パトリス・ルムンバから取られています。これらの人物は、それぞれ、啓蒙思想とアフリカ民族主義という、ゴダールが関心を寄せていた重要なテーマを表す象徴的な存在と言えるでしょう。

制作過程と公開までの道のり：困難と葛藤

『たのしい知識』の制作過程は、決して順風満帆ではありませんでした。完成した作品は、発注元のテレビ局から「映画的でない」という理由で拒絶されました。ゴダールは訴訟を起こされるなど、多くの困難を経験します。最終的には、ミュンヘンのバヴァリア・フィルムが作品を買収し、1969年のベルリン国際映画祭で上映されることになります。

制作期間中、ゴダールは五月革命を経験し、「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成するなど、精力的な活動を展開していました。革命という激動の時代の中で生まれた『たのしい知識』は、ゴダール自身の思想的・政治的変遷を反映した、挑戦的な作品であり、その制作過程もまた、激動の時代を象徴するものでした。

日本での公開と評価

日本では長らく未公開でしたが、2012年にオーディトリウム渋谷で初公開されました。邦題は定まっておらず、『楽しい科学』とも呼ばれています。この作品は、ゴダールの他の作品と同様に、難解で理解しにくい部分もありますが、当時の社会情勢やゴダールの思想を理解することで、より深く鑑賞できる作品と言えるでしょう。現在でも、多くの映画研究者や批評家から注目を集め続け、その実験性と思想性から高い評価を得ています。

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