はじまりさえ歌えない

「はじまりさえ歌えない」（はじまりさえうたえない）は、シンガーソングライター尾崎豊が発表した3枚目のシングルです。英語タイトルは「CAN'T SING EVEN THE BEGINNING」と名付けられました。1984年 8月25日にCBSソニーからリリースされ、作詞・作曲は尾崎自身が手掛け、プロデュースは須藤晃が担当しました。

この曲は、ファーストアルバム『十七歳の地図』（1983年）からのリカットシングル第2弾として発表されました。特に、リリース直前に発生した日比谷野外大音楽堂でのイベントライブ出演中の尾崎の骨折事故による活動休止期間を埋める目的も兼ねていたとされています。音楽的には、ブルース・スプリングスティーンからの影響を色濃く受け、尾崎自身のアルバイト経験に基づいて労働者をテーマに制作された楽曲です。

リリースに至る背景

アルバム『十七歳の地図』とシングル「15の夜」で鮮烈なデビューを飾った尾崎は、続く2枚目のシングル「十七歳の地図」（1984年）をリリース後、「六大都市ライブハウス・ツアー」を開催しました。1984年 6月15日の札幌ペニーレイン公演を皮切りに、6月28日の福岡ビブレホールまで、全国6都市を巡る全6公演が行われました。ツアー序盤は比較的落ち着いたステージでしたが、公演を重ねるにつれて尾崎のステージアクションは激しさを増し、PAスピーカーによじ登ったり、照明にぶら下がったりといったパフォーマンスを見せるようになります。これに伴い、観客の反応も熱狂的なものへと変化していきました。

ツアー終了後の8月4日、尾崎は日比谷野外大音楽堂で開催されたイベントライブ「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル'84」に出演します。しかし、「Scrambling Rock'n'Roll」の演奏中に、高さ約7メートルある照明イントレの頂上へ登り、間奏終了と同時にそこから飛び降りました。着地した直後、尾崎は苦痛の表情を浮かべ、ステージ裏に退場せざるを得なくなります。約7メートルの高さからの落下により、尾崎はスタッフ2人に担がれる形でステージに戻り、演奏が続けられていた「Scrambling Rock'n'Roll」を床に這いつくばったまま歌い終えました。その後、「十七歳の地図」「愛の消えた街」を続けて歌い、出番を終えました。ライブ終了後、尾崎は自身の希望で世田谷区にある自衛隊中央病院に搬送され、診断の結果「右蹠捻挫、左踵骨圧迫骨折で全治3か月」と判明。左踵の骨の一部が陥没していたため、2週間の入院が必要となりました。この予期せぬ事故による活動の停滞を回避し、空白期間を埋めるため、急遽本作のリカットリリースが決定したと言われています。

制作過程

「はじまりさえ歌えない」は、ファーストアルバム『十七歳の地図』のレコーディングに向けて、1983年 7月5日頃に制作された楽曲です。アルバム制作開始前に既に存在していた楽曲は、「街の風景」「15の夜」「十七歳の地図」「愛の消えた街」「OH MY LITTLE GIRL」「僕が僕であるために」の6曲でしたが、尾崎が学校を停学になり、時間に余裕ができたことで、アルバム制作開始に向けて新たに書き下ろされたのが本作でした。

レコーディング作業は、アルバム制作開始後の1983年 8月24日から25日にかけて、ソニー信濃町スタジオでリズム録りからスタートしました。このセッションが、本作の編曲を担当した西本明が尾崎のレコーディングに初めて参加した機会となりました。翌8月26日には、ギタリストの鳥山雄司と、後にロックバンド「FENCE OF DEFENSE」を結成する北島健二によるギターダビングが行われました。さらに9月24日には笛吹利明によるアコースティック・ギターの音が重ねられ、10月1日に尾崎自身のボーカル録りが行われるという流れで制作が進められました。

楽曲のテーマと歌詞に込められた思い

プロデューサーの須藤晃は、本作について、尾崎が傾倒していたブルース・スプリングスティーンの楽曲世界に、自身の貧しいアルバイト経験を重ね合わせて生み出したような曲だったと振り返っています。尾崎が須藤に「ブルーカラー」の意味を尋ね、「ホワイトカラー」とされるワイシャツを着る人たちに対して、作業服を着て働く労働者のイメージであると伝えられると、尾崎はそうした人々を題材とした曲に強く惹かれると述べた後、本作を制作したといいます。

歌詞の中で尾崎は、自身は高校生でありアルバイトをしているとはいえ、いわゆる「労働者」とは異なると感じていること、そして金銭のために働いているのではないことを歌っています。しかし同時に、愛する君には高価なものを買ってあげたい、君を幸せにしたいという切実な願望が歌われています。

須藤は当初、「はじまりさえ歌えない」という歌詞の切り口やタイトルが持つ意味を完全に理解できずにいたといいます。しかしその後、尾崎がこの曲においてある種の自己矛盾を抱えていることに気付きました。それは、労働者の抱える憂鬱や現実をテーマに曲を制作したものの、自身がまだ高校生であることから、その立場を歌うことへの「おこがましさ」や内面の「矛盾」を感じたことが、この独特のタイトルにつながったのではないか、と須藤は解釈しています。なぜ尾崎がスプリングスティーンの影響を受け、労働者の歌を歌おうとしたのかについては、尾崎本人も須藤自身も明確な理由は分からなかったと述べています。また須藤は、本作における「はじまり」とは、「自分が常に敗者であるという意識が芽生えた始まり」を意味し、そのきっかけは自分自身でも分からないという心境を歌った曲であるとも語っています。さらに、須藤は本作のような労働者を題材としたテーマが、後のセカンドアルバム『回帰線』（1985年）に収録された「Bow!」や、5枚目のアルバム『誕生』（1990年）収録の「KISS」といった楽曲群へと繋がっていったと指摘しています。

なお、本作に関して、尾崎が1985年 2月3日に実家から世田谷区のマンションに引っ越した後に初めて制作した曲であるとする説が一部に存在しますが、これは誤りです。引っ越し後に初めて制作されたのは、セカンドアルバム『回帰線』に収録されている「坂の下に見えたあの街に」であるとされています。

リリースと収録アルバム

シングル「はじまりさえ歌えない」は、1984年 8月25日にCBSソニーより7インチレコードの形態でリリースされました。前述の通り、日比谷野音での骨折事件による尾崎の活動に空白が生じてしまったため、その期間を補う目的もあってのリリースとなりました。

本作は、オリジナル盤であるアルバム『十七歳の地図』（1983年）に初めて収録されています。その後もベストアルバム『13/71 - THE BEST SELECTION|13_71 - THE BEST SELECTION』（2004年）など、様々なアルバムにスタジオ音源が収録されています。また、ライブ音源としては、『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.1』（1998年）などでそのパフォーマンスを聴くことができます。

シングルのB面には、同じくアルバム『十七歳の地図』収録曲である「愛の消えた街」が収録されています。この曲も『十七歳の地図』にスタジオ音源が収められているほか、『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.2』（1998年）や、『LIVE CORE LIMITED VERSION YUTAKA OZAKI IN TOKYO DOME 1988/9/12』（2013年）といったライブアルバムに収録されています。

本作は、尾崎豊の初期のキャリアにおける重要な節目にリリースされ、彼の社会への眼差しや内面の葛藤を映し出した一曲として、今なお多くのファンに記憶されています。

主な参加ミュージシャン

滝本季延 - ドラムス
本田達也 - ベース
鳥山雄司 - ギター
北島健二 - ギター
笛吹利明 - アコースティック・ギター
西本明 - エレクトリックピアノ、シンセサイザー
石井空太郎 - パーカッション

スタッフ

須藤晃 - プロデューサー
助川健 - レコーディング、ミックス・エンジニア
田島照久 - デザイン、アート・ディレクション、写真撮影
いとうたかし - セカンド・エンジニア
大野邦彦 - セカンド・エンジニア
* 村上茂 - プロモーション・スタッフ

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