みづうみ

川端康成の長編小説『みづうみ』は、彼の作風の中でも異彩を放つ作品です。主人公である桃井銀平の特異な行動、つまり美しい女性を見かけると後をつけてしまうという奇癖を中心に、物語は展開します。特に、ある少女の黒く澄んだ瞳の中に広がる湖で、裸で泳ぎたいという強烈な願望が、彼の行動原理となっています。

この小説は、銀平の様々な女性への複雑な情念を、「意識の流れ」という手法で描き出しています。過去の記憶、現在の出来事、そして妄想や幻想が入り混じることで、読者は銀平の心理状態を深く理解することになります。彼は、少女の姿に「永遠の憧憬」を象徴化させ、その美しさを追い求める中で、自身の内面と対峙していきます。

物語は、銀平が東京から信州へ逃避する場面から始まります。彼は軽井沢のトルコ風呂で、湯女のマッサージを受けながら、過去の出来事を回想します。高校教師時代に初めて後をつけた教え子・玉木久子や、幼少期の初恋の相手である従姉のやよいとの思い出が、彼の心の中で交錯します。また、銀平の家族に関する暗い過去も描かれます。母親は美しかったものの、父親は醜く、湖での変死を遂げており、その事が銀平の心に深い影を落としています。

物語には、銀平が後をつけた他の女性たちも登場します。ハンドバッグを落とした水木宮子は、かつて良家の娘でしたが、今は老人の愛人として生計を立てています。また、宮子の弟・啓助の友人である水野の恋人、町枝も重要な存在です。銀平は、町枝の純粋で美しい姿に心を奪われ、「その黒いみずうみに裸で泳ぎたい」という奇妙な憧憬を抱きます。しかし、その思いは同時に、絶望感へと繋がっていくのです。

銀平の行動は、彼の過去のトラウマやコンプレックスに深く根ざしています。醜い足に対する劣等感、父親の死、母親との関係など、彼の内面には複雑な感情が渦巻いています。そして、それらの感情が、女性に対する異常な執着心へと繋がっているのです。物語の終盤では、銀平は上野駅で出会った醜い女に、自身の劣等感を重ね合わせ、嘔吐を催して逃げ出します。最終的に彼は、自分の心の闇から逃れることができないことを悟ります。

『みづうみ』は、川端康成の他の作品とは異なり、〈魔界〉をテーマにした作品としても知られています。主人公の内面に潜む闇や、欲望と絶望が複雑に絡み合う世界観は、読者に強い印象を与えます。また、この作品は、初出誌と単行本とで内容が大きく異なっており、特に終盤部分が大幅に削除されたことで、円環構造が崩れ、未完の印象を残すことになりました。しかし、その特異な構成や、美しい日本語による幻想的な描写は、多くの読者を魅了し続けています。

物語に登場する人物たちは、それぞれが複雑な背景を持っています。玉木久子は、銀平の教え子でありながら、彼と深い関係を結びます。水木宮子は、敗戦によって没落した過去を持ち、現在の境遇に苦悩しています。また、町枝は、純粋な少女でありながら、銀平の歪んだ欲望の対象となってしまいます。これらの人物たちは、銀平の心の鏡として、彼の内面をより深く理解するための重要な要素となっています。

三島由紀夫は、この作品を「華麗な暗黒小説」と評し、主人公の「感性的な悪」について考察しました。中村真一郎は、この作品の「意識の流れ」の描写の美しさを称賛し、主人公の執念や情念を「永遠の憧れの姿」にまで象徴化できたと評価しました。また、田村充正は、この作品が「和歌への結晶を志向する歌物語」と同様の方向性を持っていると指摘し、西洋の前衛と日本の古典が融合した作品であると述べました。

『みづうみ』は、発表当初、読者の間で賛否が分かれる作品でしたが、現代においても多くの研究者や読者によって読み解かれ、その深いテーマと美しい表現は、文学史における重要な作品として位置づけられています。この作品は、人間の心の闇を描きながらも、同時に人間の美しさや純粋さを追求する、川端文学の魅力が詰まった一冊と言えるでしょう。川端がこの作品で描いた、主人公の執念、憧憬、そして絶望は、読者の心に深く刻み込まれ、長く記憶されることでしょう。

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