もののまぎれ

もののまぎれ：源氏物語を揺るがす謎の事件と解釈の歴史

『源氏物語』において、「もののまぎれ」は物語の核心をなす重要な概念であり、時にその主題とすら言われます。これは、物語の中で起こる3つの主要な事件、藤壺、女三宮、そして浮舟の事件に共通して見られる、秘密めいた出来事を指す言葉です。これらの事件は、皇室や貴族社会の秩序を揺るがし、物語全体に複雑な影を落とす重要な役割を果たしています。

三つの事件：隠された真実と波紋

1. 藤壺事件: 光源氏が義母である藤壺と密通、その結果生まれた皇子が冷泉帝として即位する物語です。冷泉帝は自身の出生の秘密を知り、光源氏への譲位を望みますが叶わず、光源氏は准太上天皇の地位を与えられます。この事件は皇統の謎を孕み、物語の出発点として大きな影響を与えています。

2. 女三宮事件: 光源氏の正妻である女三宮と柏木が密通、その結果生まれたのが薫です。この事件は、光源氏自身の不倫という影と、薫という重要な登場人物の出生に絡む秘密を浮き彫りにします。

3. 浮舟事件: 浮舟が薫と誤解し匂宮を迎え入れるという事件です。この事件は、物語全体に漂う錯綜した恋愛関係と、誤解から生まれる悲劇的な結末を象徴しています。

「もののまぎれ」の多様な意味

「もののまぎれ」という言葉は、国語辞典では主に二つの意味を持ちます。一つは、物事の慌しさや混迷の中で、気がつかないうちに事が起こってしまう状況。もう一つは、人目を避けてひそかに、特に男女間の秘密の行為を婉曲的に表現する際に用いられる意味です。

物語における「もののまぎれ」

『源氏物語』の本文中では、「もののまぎれ」は上記の二つの意味で使われています。例えば、「物事の忙しさに紛れて」という意味では、賢木や少女の巻に見られます。一方、男女間の秘密の行為を指す意味では、若菜下の巻などに見られます。しかし、これらの用例は少なく、「もののまぎれ」、「ことのまぎれ」、「まぎれ」など、似た表現が混在しており、その使い分けは必ずしも明確ではありません。特に、秘密の恋愛関係を指す意味での使用は、柏木事件に関する記述で確認できる程度です。

興味深いのは、『源氏物語』以外でも、『栄華物語』などに見られる用例が、「合意の上での男女の秘め事」を意味すると解釈されている点です。そのため、藤壺事件における皇統の乱れを意味する言葉として解釈する意見には異論もあります。

「もののまぎれ」論の歴史的考察

「もののまぎれ」が『源氏物語』解釈の重要な概念として注目されたのは、主に江戸時代と昭和初期です。これは、儒学・漢学からの批判や、万世一系を重視する天皇制の立場からの批判が高まった時期と重なります。「もののまぎれ」という概念は、そうした批判への反論、あるいは物語の擁護として用いられた側面が強いと考えられます。

江戸時代の解釈

江戸時代中期、国学者安藤為章は『紫家七論』で初めて「もののまぎれ」という概念を用いて藤壺事件を論じました。安藤は、「紛れ」は皇統内での出来事に過ぎず、皇統の権威を犯すものではないと主張しました。この見解は、賀茂真淵や萩原広道らによって受け継がれますが、契沖や本居宣長は批判的な立場を取りました。

昭和初期の解釈

明治維新以降、万世一系の天皇制が強調される社会情勢の中で、『源氏物語』における藤壺事件は問題視されます。国粋主義の高まりと共に、不倫による天皇の誕生は許容できないとされ、多くの現代語訳では、問題となる部分が伏せ字にされたり削除されたりしました。山口剛は、そうした状況の中で、「もののまぎれ」という概念を用いて『源氏物語』を擁護する試みを行いました。

三谷邦明の解釈

三谷邦明は、「もののまぎれ」を『源氏物語』全体の主題と捉え、「密通の文学」として、血統と身分に絶対的な価値が置かれた社会への批判として解釈しました。さらに、皇統における「もののまぎれ」を「反万世一系論」と捉えるユニークな見解を示しました。これは、藤壺事件だけでなく、女三宮事件、浮舟事件を含めて、物語全体を通して展開するテーマとして「もののまぎれ」を位置付けるものです。

このように、「もののまぎれ」は、物語の解釈に多様な視点を与え、時代背景や思想と深く関わってきた概念なのです。 『源氏物語』を読み解く上で、この複雑で多面的な概念を理解することは不可欠と言えるでしょう。

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