アダムとイヴ (ルーベンス)

ルーベンスによる『アダムとイヴ』：巨匠の模倣と創造

ピーテル・パウル・ルーベンスが1628年から1629年にかけて制作した油彩画『アダムとイヴ』は、バロック美術を代表する傑作の一つです。この作品は、旧約聖書「創世記」に記されたアダムとイヴの物語を主題としていますが、単なる聖書画に留まらず、ルーベンス自身の芸術的探求と解釈が色濃く反映されています。

制作の背景

ルーベンスは、外交官としてスペインを訪問した際に、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品に触れる機会を得ました。当時のスペイン王室はティツィアーノの優れた絵画コレクションを多数所蔵しており、ルーベンスはそれらの作品を模写することで、巨匠の技法を深く研究しました。

特に『アダムとイヴ』は、ルーベンスがティツィアーノの同主題作品を模写したものであり、多くの変更が加えられています。これらの模写は、ルーベンス自身の芸術的な発展にとって重要な意味を持つものでした。彼は、ティツィアーノの作品から着想を得つつ、独自の表現を追求することで、自身のスタイルを確立していったのです。

作品の特徴

ルーベンスは、ティツィアーノの作品を模写する際に、様々な変更を加えています。最も顕著な変更は、アダムの姿勢です。ルーベンスは、イタリアで素描した彫刻『ベルヴェデーレのトルソ』を参考に、アダムの身体をより直立させ、逞しく描いています。この変更により、アダムの力強さが強調され、ティツィアーノの作品とは異なる印象を与えます。また、アダムの下半身を覆っていたイチジクの葉が取り除かれたことも、ルーベンスの変更によるものです。

さらに、ルーベンスは、アダムの背後の樹木の枝にオウムを描き加えています。オウムは善の象徴として用いられ、足元にキツネが描かれたイヴとの対比を強調しています。この象徴的な動物の使い方は、アルブレヒト・デューラーの版画『アダムとイヴ』の影響を受けていると考えられます。デューラーは、イヴの足元に猫、アダムの足元にネズミを描き、それぞれ狡猾さと従順さを象徴的に表現しました。ルーベンスもまた、動物の配置を通して、物語の寓意性を強調したのです。

ルーベンスによるこれらの変更は、単なる模写の域を超え、巨匠の作品に対する深い研究と、自身の芸術的ビジョンの表出であると言えるでしょう。ルーベンスが、同時期に制作した『エウロペの略奪』の模写が極めて精緻であることと比較すると、『アダムとイヴ』における変更は、彼がヴェネツィア派の巨匠の造形言語を深く理解し、自らのものとして取り込もうとしたことの証左と言えるでしょう。これらの模写は、ルーベンスの晩年の闊達な筆致や色彩表現に大きな影響を与え、彼の芸術における決定的な転換点を示しています。

作品の来歴

ルーベンスは、模写した作品をアントウェルペンに持ち帰り、1640年に死去するまで所有していました。彼の死後、作品は遺産の一部として売却され、1645年にスペイン領ネーデルラント総督フェルナンド・デ・アウストリアを介して、フェリペ4世によって購入されました。これにより、スペイン王室はティツィアーノとルーベンスの二つの『アダムとイヴ』を同時に所有することになりました。

当初、二つの作品は別々の場所に飾られていましたが、ルーベンスの『アダムとイヴ』は1674年にエル・パルド王宮の王室コレクションに加えられ、その後、1772年にマドリードの新王宮（Palacio Nuevo）に移されました。新王宮には既にティツィアーノの作品があったため、両作品は同じ場所で所蔵されることとなりました。そして、本作品がプラド美術館に収蔵されたのは、1834年であり、ティツィアーノの作品が収蔵される数年後のことでした。

まとめ

ルーベンスの『アダムとイヴ』は、単なる模写に留まらず、巨匠の作品を深く理解し、自らの芸術的ビジョンを表現した作品です。ルーベンスは、ティツィアーノの作品を基にしながらも、アダムの姿勢や象徴的な要素を大胆に変更し、より力強く、寓意的な作品に仕上げています。この作品は、ルーベンスの芸術的転換点を示す重要な作品であり、バロック美術の傑作として、今日も多くの人々を魅了しています。



プラド美術館公式サイト
プラド美術館公式サイト(英語)

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