アルトゥール・ニキシュ

アルトゥール・ニキシュ（1855年10月12日 - 1922年1月23日）は、オーストリア帝国領ハンガリー王国（現在のハンガリー）出身の、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した指揮者、ヴァイオリニスト、ピアニストです。その音楽的才能は幼少期から開花し、ウィーン音楽アカデミーで学びました。

生涯

幼少時代

ニキシュは1855年、ハンガリーのレーベーニセントミクローシュで生まれました。父親は男爵家の簿記係、母親はハンガリー人でした。幼少期はモラヴィア地方で過ごし、ドイツ語を話して育ちました。5歳からピアノと音楽理論、ヴァイオリンを学び始め、7歳で聴いたオーケストリオンの演奏を、一度聴いただけでピアノで完全に再現するほどの才能を発揮しました。8歳でピアニストとして公開演奏会を行うなど、早くからその音楽的才能を周囲に認められました。作曲も手がけ、ソナタや交響曲などを作曲しましたが、後に「屋上屋を架すことはない」として作曲活動を辞めました。

学生時代

11歳でウィーン音楽アカデミーに入学。作曲、ピアノ、ヴァイオリンを学び、その才能は開花しました。13歳で作曲、ヴァイオリン部門で1等賞を受賞、ピアノ部門でも2等賞を受賞するなど、数々の賞を受賞。16歳にはウィーン宮廷オーケストラをバックにヴァイオリン・ソロを演奏しました。学生時代からオーケストラのメンバーとしても活躍し、ワーグナーやブルックナーの指揮のもとで演奏した経験は、後の彼の音楽観に大きな影響を与えました。18歳の時には自作の『交響曲第1番』を指揮し、初めて指揮者として聴衆の前に立ちました。

ヴァイオリニスト時代

1874年、ウィーン宮廷歌劇場の第1ヴァイオリン奏者となりました。リストやブラームス、ヴェルディらの指揮で演奏しましたが、オーケストラ生活に退屈を感じ、頻繁に無断欠席を繰り返すなど、生活に困窮する時期もありました。そんなニキシュの様子を気にかけた恩師デッソフの勧めで、ライプツィヒ市立劇場の合唱指揮者の職を得て、指揮者としてのキャリアをスタートさせることになります。

ライプツィヒ市立劇場時代

1878年、ライプツィヒ市立劇場の合唱指揮者として就任。その4週間後には楽長に昇進しました。デビュー公演は、ポール・ラコンブのオペレッタを暗譜で指揮し大成功を収めました。24歳でオーケストラの首席指揮者となった際には、若すぎるとして団員から反発を受けましたが、その指揮に感銘を受けた団員たちは、ニキシュの指揮するワーグナーの『タンホイザー』全曲を演奏し、彼の才能を認めました。ニキシュは10年間、ライプツィヒ市立劇場の発展に尽力。ワーグナー作品の上演や、ブリュル、ブンゲルトといった作曲家を指揮者として招き、同劇場をドイツのトップオペラ劇場へと押し上げました。また、マーラーも副楽長として在籍していました。この頃からニキシュは、ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会にも登場し、シューマンやブルックナーの作品を指揮しました。

ボストン交響楽団時代

1889年、ニキシュはボストン交響楽団の指揮者に就任し、ライプツィヒを離れました。しかし、アメリカでの演奏旅行でのストレスが溜まり、4年で辞任しました。しかし、その存在はボストン交響楽団史に大きな重みを加えています。

ブダペスト王立歌劇場時代

1893年、ヨーロッパに戻り、ブダペスト王立歌劇場の首席楽長に就任しましたが、権謀術数に嫌気がさして任期途中で辞任しました。

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1895年、ニキシュはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に就任。同時に、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者にも就任しました。ニキシュはライプツィヒの聴衆に熱狂的に受け入れられ、以降25年間「ライプツィヒで最も人気のある人物」と称されました。また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団も「第二の全盛期」を迎えたと評されました。ライプツィヒでは、ライネッケ時代のレパートリーに加え、リスト、ブルックナー、ブラームス、チャイコフスキー、ワーグナー、シュトラウスなど、同時代の作曲家の作品を積極的に紹介しました。また、ノーギャラで「労働者演奏会」も開催しました。ベルリンでは、当初は苦戦を強いられましたが、次第に人気を得て、演奏旅行も成功させ、観客を魅了しました。第一次世界大戦中は、外国への演奏旅行が困難となりましたが、ニキシュは国際主義的な芸術家として、芸術を通じた相互理解を訴えました。

その他の活動

ニキシュは、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者も務めたほか、1905年からはロンドン交響楽団を指揮し、1912年から1914年までは同団の首席指揮者を務めました。また、ライプツィヒ市立劇場の監督やライプツィヒ音楽院の院長も務めました。各地で客演活動も行いましたが、バイロイト祝祭劇場では一度も指揮をしませんでした。ピアニストとして歌手の伴奏も務めました。

死

1922年初頭、ベルリンでの指揮者生活25周年を祝った数日後、ニキシュは心臓発作で急逝しました。多くの人がその死を悼み、新聞各紙も彼の功績を称えました。

人物

容姿・ファッション

青い瞳に黒い巻き毛、顎には手入れの行き届いた髭を蓄えていました。毛皮のコートや金鎖の時計、ダイヤモンドの指輪などで着飾っていました。指揮棒も装飾が施された象牙製のものを使っていました。

性格

誰に対しても明るく礼儀正しく接し、女性にも人気がありました。聴衆からの人気も高く、ニキシュが「まだ私が必要ですか？」と聴衆に尋ねた際に、「生きている限り」という答えが返ってきたというエピソードも残っています。

趣味

夜な夜なポーカーを楽しむなど、奔放な生活を好んだ一面もありました。保養地イシュルでは、ブラームスと同席し、その演奏に感動してひざまずいたというエピソードもあります。

家族

ベルギーのソプラノ歌手と結婚し、息子のミーシャはピアニストとして活躍しました。

健康状態

生涯を通じて壮健で、ベルリンでの演奏会を病気でキャンセルしたのは2回のみでした。

音楽性

指揮姿

ニキシュの指揮は控えめで、右手に持った指揮棒は手首のスナップで先端を動かすのみで、左手で音楽の強調するポイントを示しました。また、楽団員たちに目で優しい合図を送ることで、演奏が難しい箇所を乗り越えたとも言われています。ニキシュの指揮は「魔術」と評され、楽団員たちは、自分たちでもよくわからないうちに、ニキシュが求める音を出していたと証言しています。ニキシュは暗譜で指揮をするという珍しいスタイルもとっていました。

リハーサル

リハーサルではまず曲全体を通して演奏し、その後注意が必要なところをピックアップして繰り返させました。ただし細かく指示することはせず、具体的な演奏法は各演奏者に任せました。楽団員たちの名前を覚えており、ヴァイオリニスト時代にともに演奏した団員を見かけると声をかけたというエピソードも残っています。卓越した記憶力と理解力で、リハーサルで初めて曲を目にすることもありました。

作品解釈

音響的な効果を狙ってテンポをずらしたり、弦楽器のポルタメントやフェルマータなどを用いたりしたほか、適宜楽譜の修正を行なったり、作品内の演奏順番を変更したりもしました。

レパートリー

ニキシュは後期ロマン派の作品や同時代の音楽を積極的に取り上げました。ブルックナー、チャイコフスキー、シュトラウスなどの作品を多く指揮した他、シェーンベルクやドビュッシー、シベリウスなど、同時代の作曲家の作品を積極的に紹介しました。

アントン・ブルックナー

1873年にオーケストラの第2ヴァイオリン奏者としてブルックナーの『交響曲第2番』を演奏した際、その素晴らしさに感動したニキシュは、後年、指揮者としてブルックナー作品を数多く取り上げ、世界初演も行いました。ライプツィヒ市立劇場の楽長時代には、『交響曲第7番』の世界初演を指揮し、大きな成功を収めました。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でもブルックナー作品を徐々に紹介し、聴衆からの支持を獲得しました。

ピョートル・チャイコフスキー

ニキシュはチャイコフスキーの作品を日常的に取り上げ、特に『交響曲第4番』『交響曲第5番』『交響曲第6番』『ピアノ協奏曲第1番』『ヴァイオリン協奏曲』は何度もプログラムに登場しました。

リヒャルト・シュトラウス

ニキシュはシュトラウスの作品を高く評価し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でも最初のシーズンから手がけています。特に『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、『ツァラトゥストラはこう語った』、『英雄の生涯』、『家庭交響曲』、『アルプス交響曲』は4回以上指揮しています。

グスタフ・マーラー

ライプツィヒ市立劇場時代、マーラーとの仲はあまり良くありませんでしたが、ニキシュはマーラーの作品もしばしば取り上げました。

レコーディング

1913年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との初の録音となるベートーヴェンの『交響曲第5番』の全曲録音を行いました。また、1920年にはベルリオーズの『ローマの謝肉祭』、リストの『ハンガリー狂詩曲第1番』などの録音も残っています。映像資料としては、1920年にチャイコフスキーの交響曲を指揮した様子が無声映画として残されています。

ライバル

ニキシュは、ハンス・リヒター、マーラー、ワインガルトナーなど、同時代の指揮者たちと比較されることがありました。ライプツィヒ市立劇場時代、副楽長だったマーラーは、ニキシュの地位を狙っていました。

ニキシュが評価した演奏家

ニキシュは、少年演奏家が好きではありませんでしたが、ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツを高く評価しました。また、ワンダ・ランドフスカの演奏にも感銘を受けました。

教育活動

ライプツィヒ音楽院では、コーツ、ビュスト、グラム、フリスティッチなど、多くの弟子を育てました。また、歌手の発掘も行い、エレナ・ゲルハルトの才能を見出し、ピアノ伴奏を買って出ました。ニキシュの弟子には、後に指揮者となる者も多く、後世に大きな影響を与えました。

評価

作曲家からの評価

ニキシュの指揮は、多くの作曲家たちから称賛されました。ブラームスは「あなたのやり方が正しい」と語り、シュトラウスは「われわれの思いつかない響きを引き出す能力に恵まれていた」と評しました。ブルックナーは「神の代理人の一人」と称え、チャイコフスキーはニキシュの指揮に感激し、ニキシュを抱きしめました。シェーンベルクもニキシュの指揮に満足したと伝えられています。

指揮者からの評価

ニキシュの演奏は、多くの指揮者たちからも称賛されました。クライバーは「言葉では言い表せない」と述べ、シェルヘンは「オーケストラ全体が、感覚を酔わせるような点々とした光が突然ともったように思える」と語りました。ブッシュは「生まれつきの客演指揮者で、天才的な演出家だ」と称賛し、ストコフスキーは「真に偉大な指揮者」と形容しました。トスカニーニも「無条件で『優』を出せる指揮者」と述べています。ニキシュは後世の指揮者たちに大きな影響を与え、ワルター、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、クレンペラーなど、多くの指揮者がニキシュの影響を受けています。バーンスタインは「音楽上の祖父」、カラヤンは「指揮している映像を見られるならば、大金を払ってもいい」とまで述べています。

楽器奏者からの評価

ニキシュが指揮するオーケストラの団員たちは、その魔術的な指揮に魅了されました。オックスは「ほとんど目に見えない動きで楽員をリードしてしまう」と語り、ブルクハウザーは「指揮台に立つと、磁力のようなものを発し、それをまわりに魔力として及ぼした」と評しました。フレッシュも「ニキシュから指揮芸術の新しい時代がはじまった」と述べています。

音楽評論家からの評価

ニキシュの演奏会に接した評論家たちは、その音楽に魅了されました。コルンゴルトは「会場が『血のような赤』に包まれ、灯りが突然光を増したかのように見えた」と述べています。一方で、初期の評論家たちはニキシュを「気取り屋」「派手好き」と評しましたが、次第に支持するようになりました。後世の評論家は、ニキシュを「現代のスーパースター指揮者の原型」と評しています。しかし、ハフナーはニキシュには「ビューローの厳格な合理性」や「教育への使命感」が足りなかったと指摘し、ニキシュが「時代の流れに追い越され、近代派から保守派になっていった」と指摘しています。また、エールマンは、ニキシュを「あくまで『世紀末』の芸術家の立場にとどまった」と述べています。

ニキシュは、その卓越した音楽性とカリスマ性で、20世紀の音楽界に大きな足跡を残しました。

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